この文を自由度という名の蜃気楼に捧ぐ

ニード・フォー・スピード モストウォンテッドという名作がある。Xbox360のローンチソフトにして、街中をフリーランして警察とおっかけっこをするタイプのカーアクションゲームの最高傑作だ。

このゲームの最大の特徴は「パースートブレイカー」と呼ばれる爆発・大破壊オブジェクトの存在だ。おっかけっこも多勢に無勢では無理があるので、超かっこよく通路を駆け抜けてガソリンスタンドの崩壊にパトカーを巻き込んで逃げちまえ!というアメリカン極まりないシステムである。

おっかけっこ、といっても脅威は後ろからやってくるだけではない。所謂アザーカー(一般車)や、真向かいから体当たりを目論む「ライノ」というパトカー、更には強固なバリケードにタイヤを破裂させるスパイクなど。妨害要素がてんこ盛りである。

さて、このゲームのアホな所は、そのパトカー共を華麗にぶっ飛ばした瞬間にカメラアングルが切り替わり、トリプルアクセルをかますパトカーと「ぶっ飛ばした超かっこいい俺」がスローモーションで映るシステムが搭載されている所に尽きる。

突如現れるアザーカーやライノ。空から追い詰めるヘリコプター。飛び交う無線。敷かれる包囲網。それらを掻い潜り、ふっ飛ばし、逃げるプレイヤー。街中に散りばめられたパースートブレイカーが「どこへ逃げてもいい自由」に一瞬だけ指向性を与える。そして「パースートブレイカーを用いての追手の排除」という短期目標をプレイヤーが設定し、それらを見事に達成した瞬間、最高に馬鹿馬鹿しい爆発や大崩壊やスローモーションで吹き飛ぶ車が「この世界にプレイヤーが与えた影響」を描く。

ゲームとは双方向性の娯楽である。世界に影響を与え、また世界から影響を及ぼされるからこそプレイヤーは必死に考える。そして自ら選んだ選択が予想通りに運び、時に予想を上回った時、脳からジュワッと汁が出るのだ。


自由度。
バズワードになり、そして死んで久しい。
自由は死んだ。自由とは何だ。


自由とは雨の中、傘をささずに踊る人間がいても良いことだと、とあるネゴシエーターは言った。


自由とは、1兆通りの組み合わせからオリジナルのbuildを設計する事だろうか。
自由とは、危害を加えて良いNPCに危害を加え、ゲーム世界から殺されそうになる事だろうか。
自由とは、10種類以上の武器と多彩な防具を組み合わせてモンスターとたたかうことだろうか。


むしろ自由でない、という話をすれば、自由でないものが分かるのかもしれない。


コールオブデューティは人を殺さねばならないので自由ではない。これはイカをわっしょいする過程で死ぬほど聞いた。
日本のRPGは自由ではない。これはFalloutNVの広告で掲げられた言葉だ。
無課金にはプレイの幅がない。不自由だ。課金って言葉は金を課すって書くんだから作る側がいう言葉であって消費者が支払うときに言う言葉じゃねえよな。閑話休題

自由ではないとはどういう事なのだろう。プレイ体験が画一化されることを自由ではないというのだろうか。「選ばされる」とプレイヤーが感じた時点で自由度は無くなるのだろうか。


自由度という言葉は、バズワードになった。
故に厳密な意味はない。本来使われるべき言葉を置き去りにして、僕らは自由を叫び過ぎた。


自由だから何だというのだ。箱庭の世界で暴れたところで、劇的な何かをもたらさない戦いは退屈極まりない。ジャストコーズというゲームを知っているだろうか。このゲームは「敵の猛攻を凌ぎ、施設を破壊しきる」という指向性や「敵の猛攻から防衛オブジェクトを守り切る」という指向性があってこそ輝き、だからこそメインシナリオや基地攻めがすこぶる面白い。しかしクリア後は退屈極まりない。ただでさえオーバーパワーの主人公が、散発的な敵の襲来を退けて終わりになるからだ。オープンワールドのゲームはこうなりがちである。メインシナリオの出来が良ければいいほど、指向性のなくなった世界は退屈に映る。

行動に見合った報酬が支払われる、というのは報酬をあてにした指向性をもたらす。オープンワールドでゾンビを爆発物付き鎌でずたずたにするのは、ひとえに経験値のためである。人は暴れるにしても報酬を貰わないと暴れがいがないとぞ喚く大変面倒くさい生き物なのだ。

こんな選択をしても評価をちゃんとしてくれる!自由だ!といえばスプリンターセル ブラックリストである。ステルス、アサルト、ノーキルなどなど、あの手この手で評価と報酬をよこすのは各々の目標設定という自由を許容する。

ゲーム内で短期目標を提示する。その目標に達するため、何をすべきかという小さな目標を設定する。それに向けて遊ぶ。その結果報酬を得る。更なる報酬の為短期目標をクリアする。この小さな目標の設定とクリア方法をどうやっても良い。どれを選んでも良い。というのは確かに自由の一つの形である。

ゲーム内で何かやっても報酬が支払われない。それはゲームの評価対象外であり、やっても特に意味のないことである。意味を持たせてもらえない行動である。だだっぴろい世界をだらだら走って、時にはNPCを撃ってみても体験という報酬が支払われない。「自由であってもそこに感動はない」のが、蜃気楼となった「自由度」の末路である。

「○○したら報酬が貰える」というのは、「○○しなきゃ報酬が貰えない」に等しい。この艦を使わなきゃルートを固定出来ない。このモンスターを手に入れなければ突破は難しい。ゲーム内で愛しの誰かさんは価値を持たせてもらえない。そんなことがあったとしたら、それは見掛け倒しの自由とその犠牲者である。

自由という言葉で覆い隠されたもの、覆い隠してしまったものは何だったのか。

指向性なき世界というのは、存外に退屈である。
報酬なき行動というのは、専ら無味乾燥としている。
影響を及ぼせない活動というのは、虚空に叫ぶのと似ている。
それは人生においても、ゲームにおいても変わりない。

 

ラブライブ!サンシャイン!!5話。中二病でもスクールアイドルがしたい!

ルビまる回、あまりの尊さに言葉が行方不明になってしまった。で、それに続いての5話である。花丸ちゃんルビィちゃん相手のときは受け受けしいのにヨハネ相手のときはジト目攻めなのなんなの?一年生トリオ美味しすぎる。まったくラブライブ!は今も昔も公式が最大手だぜ。

 さて、善子回である。5話は善子回であると同時に、ラッシャイ初のワチャワチャ回であった。未来ずら。未来ずらよ、ルビィちゃん。

浦の星堕天祭り

他人からの反応が欲しい!注目を集めるならこれだ!とラブライブ!2期6話を彷彿とさせる事を言い出したAqoursちゃんたち。幸運なことに部活アイドルだのKISSのコスプレだのをさせられずに済んだし、衣装についても大変かわいらしいゴスロリ風ということで変な方向に行かなくて本当に良かった。悲劇は二度と繰り返してはいけない(戒め)

ファイブマーメイドのくだりですっかり馴染んでいる梨子や、先輩たちの冗談に乗っかっていくルビまるを描くのも非常に良い。というかすっかり梨子が前作での海未役になっている。千歌の家でみんなで衣装を試着して騒ぐのも5人になったからこそのワチャワチャ感である。3人集まるどころか6人集まっても文殊陥落の様相。まあ結果から言えば一発限りで終わるのだが、それも彼女たちの踏み出した一歩のひとつであった。

前半のこのワチャワチャ感が「やってみたけど駄目だったよ」という善子のくすぶりと、気持ちのいい早朝ストレート猛ダッシュに繋がっていくのだからラッシャイはたまらない。

「いつか羽根が生えて」

そして津島善子自体の話をしよう。彼女の素晴らしいところは既にネットアイドルとして大成しているところである。ニコ生は大盛況な上に、ルビィがささっと検索して見つけられる程度には有名のようだ。1年の頃失敗し、そのあと2年間を薄暗いアイドル研究部の部室で過ごした音ノ木坂の妖怪とはえらい違いである。1年の1学期(動画の投稿時期から推測するに7月)にリカバー出来て良かった。ああ、本当に良かった。

で。

でだ。

善子は既に、ヨハネとして受け入れてくれる場所を見つけていた。カーテンを閉め切った部屋で、Webを通じて誰かと既に分かり合えていた。しかし、彼女はそれを続けることを良しとしない。「堕天使ヨハネとして振る舞う事」と同じように、「学校に行くふつうの女子高生になる事」も、彼女の立派なやりたいこと。

朝に登校して、
クラスメイトに挨拶して、
部活動に出て、
友達の家に行って、
誰かと一緒に何かをやる。
そんな当たり前が彼女のやりたい事だった。

善子の良いところは、周囲が若干引いていることにきちんと気付けるところだ。あれが教室で暴走する善子を花丸が止めて、「分からなかった」と部室で喚く展開だったら目も当てられなかった。そこら辺のバランス感覚が今作非常によろしい。善子は「何とかして!」と頼める誰かに女の子なのです。

何とかしようと頑張ってみた。頑張ってみるもそれはやっぱり付け焼き刃で、しまいには巻き込んだ皆まで一緒に怒られてしまう。「一緒にいたら迷惑がかかるから」と離れていく彼女を、Aqoursの皆は止める事が出来ないのでした。

 

いつか羽根が生えて、天に帰る。

それは実現し得ないと分かっていても、子供の頃の夢だったから。いつか本当にそうなると、信じていた夢だから。自分が普通の女の子だったとしても、それを信じていた事まで嘘にする必要はない。フェルトの羽根だったとしても、彼女は羽根を生やして確かに輝こうとしていた。そうやって輝きたかった事まで、嘘にして得る普通は本当に楽しいだろうか?

アイドルになりたかった。地味なままでいたくなかった。スクールアイドルが憧れだった。もっと上手にピアノを弾きたかった。音楽をここで終わらせたくなかった。スカートを履いてみたかった。自分も誰かとユニットを組んでみたかった。ラブソングを歌ってみたかった。仲間が欲しかった。

きっかけはちっぽけでも良い。ちょっと恥ずかしくなるような理由でもいい。確かに周りがちょっと引いちゃうような事なら自制して、はっちゃける時は思い切り堕天使をキメちゃえばいい。そうやって振る舞うのが最高に格好いいと思っているのなら、それを諦める必要なんかどこにもないのだ。リア充になりたいからって、羽根を捨てることなんてないのだ。

自分の好きを、迷わずに見せる。
それこそが学生たちの間で「スクールアイドル」がA-RISEとμ'sの後も脈々と続いてきた原動力だった。

一度は捨てた羽根を、千歌から受け取る善子。
微笑む彼女はもうひとりぼっちではないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 そしていつものように不穏なクリフハンガーで終わる第5話。
いつになったらマリィさんは参加するのやら…

ラブライブ!サンシャイン!!4話。5年後の君にもあげるよ元気。

スカートが似合わないから。

口調が変だから。
人前に立てないから。
運動が苦手だから。
将来が決まっているから。
今まで続けてきた事に背くことになるから。
おねえちゃんがかなしむから。
 
スクールアイドルなんて、私には出来ない。
 
 

眩しい夢に気づいた君に

ラブライブ!サンシャイン!!(以下ラッシャイ)の4話、完璧である。完璧すぎて今更僕が書くことなんてあろうか。いや、ない。
 
ないのは寂しいので思いの限りを書く。
 
 
国木田花丸と黒澤ルビィ。
それこそ子供の頃からスクールアイドルが大好きだったルビィと対照的なのが、今までスクールアイドルにそれほど関心のなかった花丸だ。
 
ルビィの夢を後押しするのが、ユメノトビラを開くのが夢。とっくに夢に気づいている君を、輝くステージへ送るのが夢。そんな花丸を動かしたのは、歌や踊りでなく一枚の写真だった。
 
当時、高校一年生。秋のファッションショーに招かれてのライブ。その時の写真である。
 
憧れ方だって十人十色。国木田花丸が見つけた夢の鼓動は、「悩まないで夢を見よう」という歌の通りに動き出したのだ。街頭の大型モニタに映し出される姿に憧れを抱くものもいれば、本屋で立ち読みした雑誌から始まる夢もある。
 
ルビィを送り出し、また一人で図書室へ戻る花丸のシーン。名残惜しそうにページを閉じる指の演出がまた素晴らしい。たった1枚の写真、そこに至るまでの物語を私達は知っている。そしてその物語を親友である花丸に語るのは、背中を押された黒澤ルビィだった。
 
だからね あげるよ元気 そのままの笑顔で
歌おう 歌おう あげるよ元気 悩まないで夢を見よう
 
ショートカットの、実は恥ずかしがりな、一人のスクールアイドルが居た。その女の子の姿は5年経った今も、誰かの心を動かしていた。やっとμ'sだけでなく、「スクールアイドルのいる世界」を描けるに至ったラッシャイはこれからも見逃せない。

ラブライブ!サンシャイン!!3話 side-A だから千歌は羽根を掴まなかった。

ラブライブ!サンシャイン!!(以下ラッシャイ)は、ラブライブ2!ではない。当たり前の話だが、とても大事なことだ。ラブライブ!の流れを汲めども、ラッシャイは続編ではなく新シリーズである。

君のこころは輝いてるかい?』(以下『君ここ』)のMVをご覧になったことがあるだろうか。なければ今すぐYoutubeで見ることを勧める。ある程度キャラの名前と顔を覚えた今ならば、その情報の洪水に流されることなくすべてを受け止められるだろう。
 
さて『君ここ』のMV冒頭、千歌が見送るのは一羽の鳥だ。その鳥は羽根を落としていくのだが、千歌はそれを掴まない。ただ微笑むだけである。
 
羽根。それはラブライブ!本編で夢や輝き、青春の象徴として幾度となく現れ、2期ではそれを手にして微笑む各メンバーが描かれたキーアイテムである。そしてμ'sは沢山の羽根を散らして、羽ばたいていった。「産毛の小鳥たちもいつか空に羽ばたく」と、歌った通りに。
 
話を戻そう。千歌は羽根を拾わなかった。その輝きに圧倒されながら、夢に恋い焦がれながら、いつか歩いていく彼方の夢としてスクールアイドルプロジェクトをスタートさせた彼女は、羽根を拾わなかったのだ。
 
普通、羽根は拾うだろう。そうして「受け継がれた」「続いた」と、湧き上がるのが視聴者だ。しかし千歌は羽根を拾わない。何故だろうか?μ'sの伝えたかった「スクールアイドルの素晴らしさ」は、届かなかったのだろうか?
 
それに対して、明確な答えを打ち出したのがラッシャイ3話「ファーストステップ」であったと思う。
 
暗闇と輝き
 
ファーストライブを迎えるのは、前作の0人よりも更に生々しくなった「数人」の観客であった。それでも彼女たちは臆する事なく、自分たちのステージを披露する。問題はその後。悪天候により照明が落ちてしまうのだ。
 
アイドル、ひいては演者というのは、自分と、観客と、そして舞台があってはじめて「演じる」ことが可能となる。そこから光を奪ってしまっては、観客は見えず、暗闇にただ一人となってしまう。
 
暗闇の中、誰に届いているかもわからないまま歌い続けられるほどの強さを少女に求めるのはあまりに酷だろう。自分も変われないし、誰かを変えられるかもわからない。歌声は嗚咽の中に消える。「こんな筈じゃなかった」と誰もが思ったとその時、光が戻る。
 
「誰か」が、そう望んだのだ。
「誰か」が、そうあれと望んだのだ。
そう在れ。「アイドル」よ、そう在れ。
 
彼女らは歌った。精一杯の声で歌った。満員の観客の前で歌った。その姿は例え拙かったとしても、誰かの輝きに足るには十分なステージであったと僕は思う。
 
暗闇と輝き。「スクールアイドル」を描くにあたり、これほど的確な描き方もなかなかないのではなかろうか。
 
輝きたい。
 
「(μ'sの)彼女達はいいました。スクールアイドルはこれからも広がっていく。どこまでだって行ける。どんな夢だって叶えられると」
 
それは、μ'sの言葉と、μ'sの夢だ。Aqoursだけでなく、全国の人々に光を与えた、μ'sの輝きだ。
 
それに対して黒澤ダイヤは言った。これは今までのスクールアイドルの努力と、街の人の善意による成功であると。
 
スクールアイドルの努力。それは作中で言うならばA-RISEやμ'sを始めとしたグループたちの活動そのものを指す。だが、少しカメラを引いてみればどうだろう。スクールアイドルの努力。大人気のスクールアイドル。東京では流行ってる。即ち、ラブライブ!の名を冠しているが故の成功だということにならないだろうか。μ'sの威光を借りた上での展開だろう?という問いかけにはならないだろうか。
 
街の人の善意。それは作中で言うならば沼津の人々の「おらが街のアイドルだから」とかけつけてくれた、地元愛を指す。別に彼女らじゃなくても、人々は沼津のスクールアイドルだったなら取り敢えずは来てくれただろう。そしてこれは、「ラブライブ!」の名を冠しているから……「μ'sの物語が良かったから」観ている視聴者の事にほかならない。
 
成功しているコンテンツだから成功している。成功しているコンテンツの新作だから見ている。それは別に彼女達でなくても成立してしまうし、それは彼女達の輝きそのものではないのだ。勘違いしないように。
 
しかし、Aqoursの3人は、それにこう応える。
「わかっています」、と。
 
「わかっています。でも、見ているだけじゃ始まらないって、上手く言えないけど、今しかない瞬間だから。」
 
「輝きたい。」
 
輝きたい。それは誰かの夢の続きではなく、彼女達が目覚めたばかりの「僕らの夢」だ。眩しい眩しい、気づいたらばかりの彼女たちの夢と青春だ。
 
だから千歌は羽根を拾わなかった。彼女達が向かっているのは、彼女達の夢に見る「彼女達の輝き」だからである。
 

 

青空Jumping Heart

青空Jumping Heart

 

 

 

 
まさかの「過去作と同じではなく、それに乗っかるだけの物語ではない」宣言をぶちかましたラッシャイ。今後も目が離せない作品にやりそうで、毎週土曜が待ち遠しい。

ラブライブ!サンシャイン!! 2話。梨子にとっての夢の扉と青春のプロローグについて。

キボウノユクエ 誰にも解らないね 確かめようと見つけようと走ってく

ラブライブ!サンシャイン!!2話である。概ね神。 以上。

 

 

あ、はい。書きます。記事を書きます。

詰め込みにつめこんで、チェックポイントを回る事にいっぱいいっぱいだった1話と比べると、2話は圧倒的なまでの熱量を叩きこんできた。正に「ラブライブ!」な回だった。1話の懸念は完全に払拭されたと言っていい。何よりμ'sが劇場版クライマックスで掲げた「スクールアイドルの素晴らしさ」は、様々な人たちに伝わっていたのだなあと世界がグッと広がった事を感じさせる回だった。

スクールアイドルとは。

何を思ったのか、テレビにおかっぱヘアーの俺達が出てきてしまった。

好きなのだ。μ'sが好きなのである。恐らく作品世界では数年前の存在であるμ'sが、たまらなく好きなのだ。それはダイヤも千歌も変わらない。μ'sに背中を押され、夢を見た筈なのだ。

その二人を分けているのは何か。

ダイヤの語るμ'sのそれは、正に「アイドル」への憧れそのものである。私は貴方よりずっと詳しく正しくμ'sが好き。だから貴方達のスクールアイドルは認められない。奇妙なことに、その姿はあのツインテールの妖怪によく似ていた。ポテトを盗み食いし、神社の境内で足首をつかむ女。そう、矢澤にこである。矢澤の叫びは、確かに届いていたんだ。

さて、千歌はどうだろう。彼女が語るのは「スクールアイドル」としてのμ'sである。梨子の「μ'sはなんていうか普通」という感想、もしもダイヤが聞いていたらカンカンにですわしていただろう。だが千歌はそうではない。

どこにでもいる、普通の女子高生。それなのに、あんなにキラキラと輝いている。自分もいつかそうなりたい。高校二年の春にやっと気付いたばかりの夢なのだ。「スノハレを作ったあの時の彼女たちはどうだったんだろう」と調べ、憧れを語る彼女はラッシャイに登場する誰よりも真剣に「スクールアイドル」になろうとしている。

千歌にとってμ'sは、自身で歩いていく彼方の存在だ。その輝きは憧れだとしても、彼女には決して「届かない夢」ではない。自分もそうなりたいと語る目標だ。

僕と君は同じだから。

梨子に対し「してほしい」を伝えるだけだった千歌。その千歌が「変わるよ、きっと」と、手を取るシーンは概ね神だった。自分に好意を向ける人の手をとって「変な人」って、百合なんだよな……

 

神という言葉で済ませられるなら私はブログなんぞやっていないので続ける。しかし言葉など、あの時彼女たちの聞いた海の音と比べてしまえばさして意味を持たないんじゃないだろうか。

光のささない海の暗闇では、何も見つけられない。だけども、不意に見た空があんなにも青かったなら。「僕も同じなんじゃないか」と思えるなら。きっと青春が、その瞬間に聞こえたんだ。

一人、その様子を遠巻きに見る果南。彼女にもその日が絶対来る。諦めちゃだめなんだ。

「わたしのすきなもの」

前回、自らのステージを見せるべきだと書いたわけだが、千歌はもっともっと基本的なことから始めた。つまり「スクールアイドルとはなんぞや?」というお話である。それも知識ではなく、「私はこういうところが好きです」と、目を輝かせながら白いノートにペンを走らせて。

その熱意に、梨子も動かされていく。「ユメノトビラ」。数年越しのμ'sからのメッセージと、千歌の温度にあてられて。

 

ユメノトビラ ずっと探し続けてた 君と僕とのつながりを探してた

ユメノトビラ 誰もが探してるよ 出会いの意味を見つけたいと願ってる

西木野真姫を覚えているだろうか。あのちょろツンデレを。あの恥ずかしがり屋を。あの自信家を。「決まっていた未来」、「終わっていた音楽」を倒し、勇気で未来を見せたスクールアイドルを。

彼女は「私の音楽はもう終わっている」と、決まっていた未来を憂いていた。ピアノの蓋を閉じたのは自分の意思ではなく、やがて訪れる誰かの望む未来の為であった。

さて、桜内梨子…彼女はどうだろうか?

彼女は自らの意思で蓋を閉じた。それは上達のしなさ、もっと言えば「変われなさ」から目を逸らすためだった。「どうやってもいずれ終わり」ではなく、「どうなるのか分からない」「どうすればいいのか分からない」から、ピアノから離れた。

 

先が見えない。それは先が決まり切っているのと同じぐらい、怖く辛いことと言っていいだろう。

 

ピアノを弾いている間はきらきらして、お星さまみたいに輝ける。ピアノの蓋は、桜内梨子にとっての夢の扉だった。閉じてからもずっと近くにあって、ずっと探し続けていた、ユメノトビラ

「今までの事を諦めるわけにはいかない」「本気でやっている人に失礼だ」と雁字搦めになっていた梨子に、千歌は手を差し伸べる。諦める事は無い。やってみて笑顔になれたらまた弾けばいい。やりたいこと、全部叶えていけばいい。

泣きながら変わりたいと願う梨子、皆を笑顔にするのがスクールアイドルだと手を伸ばす千歌。梨子が「流石に届かないね」と諦めかけたその時、届かない星だとしても千歌は手を伸ばす。触れられなかったら、もう二度とその熱さは戻らないかもしれない。身を乗り出して手を差し伸べる千歌。

「待って!駄目っ!」

今、その手を伸ばしたかった。ゼロからの一歩は勇気が必要。だから半歩ずつ彼女たちは歩み寄った。「変わりたい」から、「今、未来、変えてみたくなった」から。

傍から見ていれば、馬鹿げたやりとりだ。
だけど彼女達にとっては、これが青春のプロローグなんだ。
一生懸命になるのはきっと、とても素敵な事だから。

  

ラブライブ!サンシャイン!!は決してラブライブ!の二番煎じではない。μ'sの見せた輝きと温度を胸に、いずれAqoursになる9人の、新しい夢の物語だ。来週を楽しみに待ちたい。

ラブライブ!サンシャイン!! 1話。千歌の空回りと「輝き」とは。

私は、ラブライブ!の為に東京に来た。
そしてこの夏、私は東京で青春まっしぐらの「眩しい夢」を目撃する。

ラブライブ!サンシャイン!!が始まったのだ。

さて、この記事では1話の千歌の空回りと「大人気のスクールアイドル」について考えてみようと思う。

完璧なラブライブ!1話の立ち上がりと比較すると盛大な肩透かしのラッシャイ1話

ラブライブ!サンシャイン!!といちいち書いてると長いので「ラッシャイ」と略すことにする。

ところでラブライブ!1話の立ち上げ方は、控えめに言って神であった。

 

  1. 音ノ木坂が廃校の危機にある事が分かる(最終目標の提示)
  2. 音ノ木が大好きな主人公は廃校を阻止したい(主人公の原動力)
  3. スクールアイドルを立ち上げて知名度を上げることを思いつく(手段)
  4. 超高校級のデザイナー、及びスクールアーチャーが加入する(同じ志を持つ仲間)
  5. ミトメラレナイワァ(ぽんこつ)
  6. 私、やっぱりやる!やるったらやる!

神である。ススメ→トゥモロウによるシメも相まって神である。何が良いってこの時点で既に3人のファンになってしまうのだ。この3人が何かやるんだなあっていうのが分かるのだ。A-RISEのシーンで稲狂いこと小泉嬢や音ノ木の妖怪YAZAWAが顔見せしているのも素晴らしい。こいつらもアイドル好きなんだなと一発で分かる。

ラブライブ!にはまさに現代の立志伝もしくは英雄譚としての魅力が詰まっていたのだ。

 

さて、ラッシャイである。

 

ラッシャイ1話は終始、高海千歌が空回りし続ける。そこには「μ'sという一つの光を見た」なる、原動力の提示しかない。1話のタイトル通り「輝きたい!」という燻りだけが転がっている。故に、未だに物語は転がり出していない。肩透かしのまま始まる特殊EDの『決めたよHand in Hand』にもどこか上滑りした感じがある。

この空回りは何なのか?

 

「大人気のスクールアイドル」?

 作中で千歌が言う事に対して、大人はおろか同じ生徒たちでさえ耳を貸そうとしない。そしてよりによって音ノ木出身の梨子によって、「大人気」というのは否定されてしまうのである。おお、嘆かわしや。前作では女子中学生が出待ちをする様すら描かれたというのに。

「大人気」と言っておきながら千歌はその「知っていて当然」という前提で勧誘を行っている。これでは人がついて来ない。彼女は動画を見たから凄い凄いと言っているだけで、道行く人はその凄さも、スクールアイドルの素晴らしさも知らないのである。

前提からして、彼女は空回りしていたのだ。

千歌がすべき事、それは「自身の輝くステージを人々に見せる事」だ。

ラブライブ!1期3話の素晴らしさはそこで、あの0人のライブを後のメンバーが目撃している事にある。3人のファーストライブから、誰も目を逸らすことなど出来なかったのだから。

千歌には、何もない。目標も、目的もない。あるのは「輝きたい!」という夢だけだ。言ってしまえば、廃校という危機はそこに無く、手段としてのスクールアイドルもそこに無く、寄り添う仲間と言えば渡辺曜ただ一人。それでも彼女は手を差し伸べる。やっと出会えた夢に向かうために。

ラブライブ!を下敷きにした上でラッシャイはまさにもう一度「学校でアイドル?」というところから始めようとしている、のかも知れない。3話までで一度ぶちかませるのか、今から楽しみで仕方ない。

投げた石の跳ねた数
梨子と話しながら千歌が投げた石は、水を切って跳ねていく。その数は、8回なのだ。千歌を除いて残りは8人。これは決して偶然ではないだろう。彼女が見つけた新しい夢の欠片は、他の8人の心にどのような波紋を呼んで行くのだろうか。
 
様々な意味で完璧では無いスタートを切ったラッシャイに、どうか眩しい夢が待っていますように。
 
1年トリオの出番が多ければいいなあと思いながら、待て次回。

ガルパンに命を救われた私が4dxで体験した幾つかの事。

 
1月末にインフルエンザで数年ぶりに倒れた。
医師の診察によれば流行中のA型だそうだ。
 
医師は「休養」「水分」「栄養」の3つを大事にと、割とマジなトーンで告げてきたので、大人しくポカリスエットを買い込み、さて皆が仕事で忙しい昼間っからゲームをやってやるぞと気合を入れたところこれがまあ反射神経を要求するものが尽く遊べないのなんのである。
 
というわけで、私はガールズアンドパンツァーの一挙視聴を敢行したのであった。
 
するとどうだろう。
一話視聴時点で既に咳は止まり、
サンダース戦時点では頭痛も無くなり、
プラウダ戦時点でついに熱は36.5℃を下回ったではないか!
 
ガルパンはインフルエンザに効くのではないか…?」
 
私の中で疑念が確信に変わっていく。3話見てはローソンに足を運んで備蓄食料を買ったり肉まんを買ったりしてみる豪遊っぷりだったわけだが、明らかにその足取りが軽くなっている。
 
そして迎えた最終決戦。
黒森峰の行く手を遮るはレオぽんのポルシェティーガー
西住流に逃げは無い。
あの軍神西住みほはこの状況を作り上げたのだ。
 
西住みほならば。
あの女なら西住まほを倒し得る。
それを誰より知っているのが黒森峰の副隊長の逸見エリカなのではないだろうか。嗚呼。今行きます。待っていてください隊長。その叫びは届かない。いや、遅すぎた。
 
かくして、西住みほは、大洗女子は勝利する。
見つけたよ。私の戦車道。
 
ガルパン一挙を終えた私の身体には最早、荒れに荒れた喉を除き熱や頭痛に倦怠感といったインフルエンザの諸症状はなかった。ガルパン一挙によるセンシャカラテの大量摂取を行った結果、血中ガルパニウム濃度が急激に上昇しウイルスを駆逐したのだろう。
 
ありがとうガールズアンドパンツァー。
私は何度、救われたことだろう。
本当に。本当にありがとう。
 
※ちゃんと解熱から2日あけて出勤しました。
 
さて、そんなガールズアンドパンツァーの4DXである。
見に行かないわけがない。予約は取った。取ったとも。
雨やら風やらが凄いとのこと。ならば一滴たりとも逃すわけには行かないぞと、バリカンで頭を丸め、シックの四枚刃で入念に剃り上げた。
 
この記事は、ガルパンに命を救われた一人の男が、スキンヘッドでユナイテッド・シネマとしまえんにて劇場版ガールズアンドパンツァー 4dx上映に挑み、目撃した事とその身で感じた事をありのまま書いたものである。
 
 
さて、4dxだ。
4dx、噂には聞いていたがこのR-Gray初体験であった。
 
上映前の予告が終わるとIMAXの導入よろしく、カーチェイスの映像が流れた。その映像が流れ終わったと思ったら……映像が巻き戻る。先ほどのカーチェイスに続いて4dxの真っ赤な椅子が。と、気づいた時には
 
私は思い切り"揺さぶられ"ていた。
 
甘かった。
幾ら動くとはいえたかだか浮遊感程度だと思っていたのだF-ZEROAXやアフターバーナークライマックス程度だと思っていたのだ。それがこんな"ドキドキするほど揺さぶられる"だなんて、予想もしていなかった。
 
西住殿の3分ちょっとのガルパンおさらいが始まる。ゆっくり落ち着いて観てください。ああ西住殿、貴女は今4dxの銀幕にいるのですぞ。パンツァーフォーと言ってしまえば、始まるのはどう考えても最高の2時間ですぞ。いいのですか西住殿。パンツァー、フォー。
 
ダージリンが茶柱についてペコに話している間、劇場の空気がどんどん煮えていくのを肌で感じる。男も女も老いも若きも、その瞬間を待ちわびていたのです。これから何が起きるのか、大体予想は付くが一体何が起きるのか。ああ、絶対こんなの楽しいでありますよ西住どn
 
冷静でいられたのは、チャーチルの砲身をカメラが抜けるまでのほんの僅かな間であった。私は揺さぶられるどころか、座席からずり落ちそうなほどに"ぶん殴られた"のだ。しかも一回だけではない。聖グロリアーナの車両に向けて大洗と知波単が撃つたびに、前につんのめってはヘッドレストに数回頭を叩きつけて姿勢を立て直す。
 
とんでもない事が始まってしまった。
 
登場人物が話している間に誰かが発砲してさえ居れば、尻がぶるりと震える。4dxの導入動画にあったとおりだ。「Where are you?」とはこのことだったんだ。私は西住殿の隣にいる。私はエキシビジョンマッチの只中にいる。私は審判団の航空機の中にいる。ガールズアンドパンツァーの世界がそこにあるだけじゃない。あのときユナイテッド・シネマとしまえんは、間違いなく大洗だったのだ。
 
継続の面々が話している時も4dxはその手を休めない。ミカが何か言うとふわりと風が吹くのだ。「ただ振り回せばいいってもんでも無いんじゃないかな」と4dxが語りかけてくるようだった。
 
大洗市街地戦が始まると、それまでの事すら手加減だったと分かる叩き付けるような動きのオンパレードであった。ブレーキを踏めばつんのめるし、ノンナの戦車にぶっ飛ばされれば思い切り殴られるし、聖グロ最速がつっぱしれば思い切り振り回される。最早これは映画ではない。戦場だ。こんなところでポップコーンを抱いていたら吹き飛ばされてしまう。4dxならばカチューシャのミホーシャ馬鹿じゃないのの説得力も4倍である。
 
エキシビジョンマッチが終わったあとも、4dxは手をぬかない。潮風の中Ⅳ号に乗って学園艦に帰る時も風が吹いていたし、別れのバスの中でもエンジンの振動が伝わってきた。お菓子食べよう……お菓子だ……会長がなんとかしてくれる……
 
もちろん、戦車だけでなくスーパーギャラクシーが現れる時も、そして大洗女子の面々に相棒を届ける時も風が吹き、そして浮遊感と振動で持って臨場感を与えてくれる。そんな4dx殿も空気を読むのが、みほによる幼い頃の回想である。
 
風が吹き、揺れるからこそ「何も動かない」事によって目の前の光景に没入出来る。という新しい体験が出来た。ああ、変わっていないのだ。まほおねえちゃんは、まほおねえちゃんだったのだ。そういったメリハリもまた、4dxならではなのかも知れない。
 
そうこうしているうちに桃ちゃんが大泣きして、ねこにゃーがムキムキになって(ここで4dx殿が落ちたダンベルの振動を伝える)、決戦前夜の濃厚なみほ杏が終わったと思ったらもう試合開始直前だ。ここの一同勢揃いのシーンでも、こちらのときめきに合わせるかのような浮遊感が味わえる。これ制服着たいって即決したのマホーシャだろ……文句ぶちぶち言いながら袖がべろべろのカチューシャなんなんだお前……そしてダージリン……「みんな着てみたかったんだって」じゃないよ……誰よりもそれを楽しみにしてたの貴女でしょう絶対に。ねえ。ダー様。
 
さて、カール自走砲である。
何がおっかないって凄まじい爆発の振動に加えて爆風もやってくるのだ。観客席に。爆音上映が音なら4dxは風と振動でカール自走砲の恐ろしさを表現してきたのだ。ああ、あんなの勝てっこない。
 
雨だ。
雨が降ってきた。
カチューシャを生かすために、クラーラが、KV-2が、ノンナが、プラウダの面々が散っていく。悲壮感三倍増し。でも皆戦車の中では?思ったら家元こと西住シホーシャがずぶ濡れであった。ああ、この雨は家元も浴びた雨だったのだ……
 
その恐ろしいカール自走砲を倒すために、どんぐり小隊が結成された。ここのドゥーチェほんとかわいい。こ゛っ゛ち゛み゛て゛る゛ぞ゛。
 
継続ちゃんだ。
継続ちゃんである。
ミカがカンテレを弾けば、ミッコが踵を鳴らす。
カッ。
カッ。
 
その時、確かに4dx殿も鳴らしたのだ。観客の、我々の太腿を通じて。あの時、劇場の誰もが踵を鳴らしたのだ。
 
例えば撃たれて吹き飛んだとしても、簡単に彼女たちはくたばらない。天下のクリスティー式を舐めるなよ。車輪が周り……彼女たちは"弾け"た。パパパパンと破裂音がし、脹脛の辺りに何かが当たったような感触がする。これはBT-42が、継続高校の彼女たちが弾けた何かだ。そう4dx殿が伝えようとしている。受け止めねば。見届けねば。彼女たちの奮闘を。
 
大学センバツ戦もここまで語れば、もう恐らく充分だと思う。大洗市街地戦だって海岸のナポリターンやKV-2のアホ火力等、文章じゃ語り尽くせない。観覧車さんのカンちゃんドラムも、タンケッテonジェットコースターも、あひる小隊が天才少女にぼこぼこにされる時も、アリクイさんチームが筋肉で撃破する時も、そのどれもが4dx殿によって最高の体験となっていた。
 
西住vs島田の最終決戦はバルト9よりも、立川シネマシティよりも手に汗を握った。もはや私たちは観客ではない。チームだ。大洗女子と、我々と、4dx殿。我々はあの時、間違いなく戦友だったのだ。
 
「戦車道には人生に大切なすべてのことが詰まってるんだね」
 
「……だろう?」
 
 
幾度となく聞いたエンディングテーマ、『piece of youth』が流れ出す。見上げた夕焼け空には、沢山のシャボン玉が浮かんでいた。大洗女子の勝利を。彼女たちの未来を祝福するように。
 
 
 
 
4dxは、動く。僕らの心ごと、動かす。
 
 
 
まだ4dxで観ていないなら、迷わず4dxで。
まだガルパン劇場版を観ていないなら、出来れば普通に一度見てから4dxで観ることを薦める。
というのも、煙演出(やや後方から見る限りではうまく拡散せず左右からもわっとして場面の切り替えについていけていないように見えた)や、フラッシュ演出(暗闇で散る火花が格好いいのに劇場内すべてをパカパカと照らすためアトラクション側に針を振り切ってしまう)が、映像作品としてガルパンを見るときに邪魔になってしまうのである。
 
それは置いとくにしても、風や雨に振動や、時には背中をボッコボコにするような体験は正に4dxと名乗るに相応しい感動を与えてくれた。
 
もし4dxを見た直後に「ガルパンはいいぞ」「動いていた」しか言えなくなった人を見かけても、そっとして上げてほしい。
 
その人の心は、きっとまだ大洗にあるからだ。