ラブライブ!サンシャイン!!8話。そして始まる物語について。

アイドル。
偶像。
注目される人。
憧れの対象。
例え「他人からどう思われるかじゃない」と言えど、「他人からどうとも思われない」のでは、あまりにも報われない。

それが「スクールアイドル」が「アイドル」たる所以である。興行によって利益を生むだとか、それを生業とするだとかではない。ステージに立つ以上、観客が見てくれなければ、注目されなければ、心に残らねば、報われないのだ。

ラブライブ!サンシャイン!!(以下ラッシャイ)8話は、「スクールアイドル」が「アイドル」であるが故に、少女たちが「現実」と対峙する話であった。

でもSaint SnowはA-RISEより全然オーラ無かったしあれで「圧倒」みたいなこと言われても無理だと思います。酒井くんコンテもっと頑張って。(冷静)


そして夢が終わる。


周知さえすれば。人目さえ引ければ。キャラで目立てば。地味&地味&地味でもどうにかなるんじゃなかったのか。「東京」は、どうしようもなくAqoursの彼女達だけをステージに引きずり出した。生まれ育った故郷の住民ではなく「自分達を見に来たわけではない観客」の前では、彼女たちは「30組出てくるスクールアイドル」の1つでしかなかったのだ。


一年生が入ってくれれば、廃校なんて話でしか聞いてなかった状況が舞い込んできたのなら、ネットで動画が好評ならば、これだけ話がうまく転がったのなら「ラブライブ!優勝もあり得るのではないか」……高海千歌は、事あるごとにそう口にしてきた。スマホの画面の中で踊るμ's達は手が届きそうなほど地続きの存在で、だから手が届くんじゃないかと思っていた。


その結果が、得票0である。


しかもただの得票0ではない。彼女達にも手応えがあったのだ。一番ミスが少なく、のびのびと最高のパフォーマンスを出来たという手応えが。手応えがあったからこそ、尚の事自分たちに言い訳が立たなくなってしまった。一番先に泣いたのは、昔からスクールアイドルがやりたかった女の子、黒澤ルビィだった。うまく行かなかったのではないのだ。うまく出来ても、誰も選んでくれなかったのだ。


「くやしくないの?」


そう問いかけたのは、誰よりも高海千歌を知っていた渡辺曜だ。幼馴染がずっとずっと燻っていて、ようやく見つけた「やりたいこと」に付き合う為にスクールアイドルを始めた子だ。曜は千歌の側で輝き続け、そして幼馴染が輝くためにスクールアイドルを始めている。今はどうあれ、きっかけは千歌のためだ。


これまた渡辺曜は水泳大会の経験者で、桜内梨子はピアノコンクールの出場経験のある娘というのも大きい。何かを真剣に取り組んできたということは、真剣に続けてきたからこその悔しさを知っている。人に知られず流した涙がある。その彼女達の前で、千歌がとったのは「でも、満足だよ。私は嬉しかった。みんなであそこに立てて」……今まで通り、「やってみること」そのものへの言葉だけだった。


「わあ、すごい、キラキラしてる」というのは、輝らされて輝くモノを見る側の言葉だ。スカイツリーでアイスを皆に振る舞う時に妙に明るく放つのがこれなのだが、下手をすれば悪趣味になりかねないギリギリの演出だなあと私は思った。


変わる思い。変われない世界。


かつて浦の星にもスクールアイドルがいた。しかし彼女達は「廃校を回避するため」にスクールアイドルを始めた子達であり、スクールアイドルのためにスクールアイドルを始めたわけではなかった。


「外の人に見てもらうとか、ラブライブに優勝して学校を救うとか、そんなのは絶対に無理なんだよ。」


彼女達の動機は、自らの外側にあった。外側を変えることにあった。結果、彼女たちには世界を変えることは出来なかった。「自分たちには変えられない」という思い出だけが胸に残った。


だが、マリィはどうだろう?あの中で一人だけ、学校を救うために動いたわけではなく、誰かの為に歩きはじめた子ではないだろうか?そして唯一、「まだステージで歌っちゃいないこと」をわかって、今も走り回っている子ではないだろうか?


「果南」と呼びかけ広げたマリィの両腕は、かつて自分を変えてくれたそれと同じだ。

変わったんだから、変われる。

変ったけど、変えられない。

変えられなさに誰が傷付く前に、スクールアイドルプロジェクトはやめるべきだ。2年という時間は、少女の心の傷をジクジクと膿ませるのには十分過ぎる時間だった。果南とマリィはすれ違う。世界は変えられる。君がそう教えてくれた。「宝物だったあの時」を取り戻す為に、必要なものはなんだろう。きっとそれは、遠い彼方にあるわけじゃなく、何処かに置いてきてしまったものに違いない。


わたし、やっぱり、くやしいんだよ。


現3年生達のスクールアイドルと、千歌の違いは何だろう。私は「何かの為のスクールアイドルか、そうでないか」だと思う。千歌は、変わりたかった。輝きたかった。廃校という状況の為じゃなく。誰かの為でもなく。自分がそうしたかったから。結果、どうだったろう。練習をして、衣装を作って、歌を作って、パフォーマンスは出来た。それでも、夢の東京で手に入れたのは「0」だった。


「とにかく、行動します。」


闇雲に、いたずらに、無邪気に、思いつきで、輝いた目で、彼女は走ってきた。意地の悪い言い方をすれば「スクールアイドルとして活動する事」そのものを千歌は面白がっていたふしがあった。「そう?面白くない?」で突き進んでしまう所があった。


「変わりたい」ばかりで、「どうしたい」のか、具体性のないまま千歌はここまできてしまった。ラッシャイ前半に漂っていた千歌のフワフワした印象は、まさにその通り演出されていたものだったのだ。そして千歌は、それと遂に対峙してしまった。


昔とは違うとか。
差がすごいあるとか。
周りのレベルが上がったとか。
数がどうだとか。
そんなの。
どうだっていい。


スクールアイドルがアイドルである以上、観客がいて、観客の心に残って、誰かにとっての輝きになってはじめてアイドルになれる。それが「0」だった。


「やっぱり、わたし、くやしいんだよ」


それはメタ的に見れば、アイドル物そのものの成熟や、ラブライブ!の名を冠しているが故の人気のある現状すら、全部吹き飛ばすような叫びだった。


「輝きたい。」

千歌は、梨子に始まりの日にそう言った。それは今も変わらない。だが、走り出してしまった今、言い出しっぺの彼女は、発起人だからこそ気丈に振る舞うしかなかった。責任だって感じていた。私が泣いたら皆が悲しむから、装うしかなかった。「笑顔にするのがスクールアイドル」という言葉は、彼女の呪いのようになってしまった。


「変わりたい。」

それは千歌だけじゃなく、皆同じだ。千歌の為にやっているのではない。自分がやりたいから一緒に来た、同じ夢を見た「仲間」だから。『泣いちゃえば、付き合うよほら』と、歌の通りに手を取ってくれた。


「私も知りたいの。それが出来るか。」

変わりたいと泣いた梨子に手を伸ばした千歌の手を、次は梨子が握る。笑顔にするのが、スクールアイドルだから。

『始めたいMy Story

『変えたいなMy Future』

Aqoursは、ここから始まる。わからないままで何とかなるさと始めて、面白そう!とジャンプして、さあおいで!と手を伸ばしてやっと0まで辿り着いた。ラブライブ!サンシャイン!!は8話かけて、ようやくここまで来ることが出来た。とは言え、そこにあったのは足踏みではなく、目標に向かって届こうとする全力疾走だった。

 

 

こうなると、1話のスカスカした感じが非常にもったいない。それとキャラ掘り下げにさして寄与しなかった7話もだ。こういう話を出来るのに、所々で詰めが甘いのもラブライブ!と言えばラブライブ!かもしれない。が、どうしても私は立ち上げから完璧だったμ'sの物語が8話で正式にスタートを切ったことを考えてしまう。現状だと1期のビシっとした筋の通り方と2期のシリアスになりきれないもわっとした感じが混在している。

とは言え、ここで「0を100にするのは無理かもしれない」という台詞や、「廃校の阻止」や「これからのスクールアイドル」の為に動いたμ'sとは違う「輝きたい」という目標が、Aqoursの物語を単なる続編やキャラ替えに留めていない。何より私はもっと見ていたいのだ。Aqours達がどんな風に輝いていくのか。

さしあたっては、果南にとっての『もう逃げないで進む時』がいつ来るのか。早いところ彼女をもう楽にしてあげて欲しい。確かに現3年のスクールアイドル計画は失敗して、傷ついて、涙を流したかもしれない。だけども、千歌達はいっぱい泣いて、手を繋いで、また屋上へかけ出した。絶対に同じ結末は辿らない。


傷つくかもしれない。泣くことだってあるだろう。時にはぶつかり合うことだって。だけど彼女達はこう歌ったから。きっと大丈夫。

『何が起こるか分からないのも楽しみさ!』

って。だから、きっとダイジョウブなんですよ。大好きがあれば。

この文を自由度という名の蜃気楼に捧ぐ

ニード・フォー・スピード モストウォンテッドという名作がある。Xbox360のローンチソフトにして、街中をフリーランして警察とおっかけっこをするタイプのカーアクションゲームの最高傑作だ。

このゲームの最大の特徴は「パースートブレイカー」と呼ばれる爆発・大破壊オブジェクトの存在だ。おっかけっこも多勢に無勢では無理があるので、超かっこよく通路を駆け抜けてガソリンスタンドの崩壊にパトカーを巻き込んで逃げちまえ!というアメリカン極まりないシステムである。

おっかけっこ、といっても脅威は後ろからやってくるだけではない。所謂アザーカー(一般車)や、真向かいから体当たりを目論む「ライノ」というパトカー、更には強固なバリケードにタイヤを破裂させるスパイクなど。妨害要素がてんこ盛りである。

さて、このゲームのアホな所は、そのパトカー共を華麗にぶっ飛ばした瞬間にカメラアングルが切り替わり、トリプルアクセルをかますパトカーと「ぶっ飛ばした超かっこいい俺」がスローモーションで映るシステムが搭載されている所に尽きる。

突如現れるアザーカーやライノ。空から追い詰めるヘリコプター。飛び交う無線。敷かれる包囲網。それらを掻い潜り、ふっ飛ばし、逃げるプレイヤー。街中に散りばめられたパースートブレイカーが「どこへ逃げてもいい自由」に一瞬だけ指向性を与える。そして「パースートブレイカーを用いての追手の排除」という短期目標をプレイヤーが設定し、それらを見事に達成した瞬間、最高に馬鹿馬鹿しい爆発や大崩壊やスローモーションで吹き飛ぶ車が「この世界にプレイヤーが与えた影響」を描く。

ゲームとは双方向性の娯楽である。世界に影響を与え、また世界から影響を及ぼされるからこそプレイヤーは必死に考える。そして自ら選んだ選択が予想通りに運び、時に予想を上回った時、脳からジュワッと汁が出るのだ。


自由度。
バズワードになり、そして死んで久しい。
自由は死んだ。自由とは何だ。


自由とは雨の中、傘をささずに踊る人間がいても良いことだと、とあるネゴシエーターは言った。


自由とは、1兆通りの組み合わせからオリジナルのbuildを設計する事だろうか。
自由とは、危害を加えて良いNPCに危害を加え、ゲーム世界から殺されそうになる事だろうか。
自由とは、10種類以上の武器と多彩な防具を組み合わせてモンスターとたたかうことだろうか。


むしろ自由でない、という話をすれば、自由でないものが分かるのかもしれない。


コールオブデューティは人を殺さねばならないので自由ではない。これはイカをわっしょいする過程で死ぬほど聞いた。
日本のRPGは自由ではない。これはFalloutNVの広告で掲げられた言葉だ。
無課金にはプレイの幅がない。不自由だ。課金って言葉は金を課すって書くんだから作る側がいう言葉であって消費者が支払うときに言う言葉じゃねえよな。閑話休題

自由ではないとはどういう事なのだろう。プレイ体験が画一化されることを自由ではないというのだろうか。「選ばされる」とプレイヤーが感じた時点で自由度は無くなるのだろうか。


自由度という言葉は、バズワードになった。
故に厳密な意味はない。本来使われるべき言葉を置き去りにして、僕らは自由を叫び過ぎた。


自由だから何だというのだ。箱庭の世界で暴れたところで、劇的な何かをもたらさない戦いは退屈極まりない。ジャストコーズというゲームを知っているだろうか。このゲームは「敵の猛攻を凌ぎ、施設を破壊しきる」という指向性や「敵の猛攻から防衛オブジェクトを守り切る」という指向性があってこそ輝き、だからこそメインシナリオや基地攻めがすこぶる面白い。しかしクリア後は退屈極まりない。ただでさえオーバーパワーの主人公が、散発的な敵の襲来を退けて終わりになるからだ。オープンワールドのゲームはこうなりがちである。メインシナリオの出来が良ければいいほど、指向性のなくなった世界は退屈に映る。

行動に見合った報酬が支払われる、というのは報酬をあてにした指向性をもたらす。オープンワールドでゾンビを爆発物付き鎌でずたずたにするのは、ひとえに経験値のためである。人は暴れるにしても報酬を貰わないと暴れがいがないとぞ喚く大変面倒くさい生き物なのだ。

こんな選択をしても評価をちゃんとしてくれる!自由だ!といえばスプリンターセル ブラックリストである。ステルス、アサルト、ノーキルなどなど、あの手この手で評価と報酬をよこすのは各々の目標設定という自由を許容する。

ゲーム内で短期目標を提示する。その目標に達するため、何をすべきかという小さな目標を設定する。それに向けて遊ぶ。その結果報酬を得る。更なる報酬の為短期目標をクリアする。この小さな目標の設定とクリア方法をどうやっても良い。どれを選んでも良い。というのは確かに自由の一つの形である。

ゲーム内で何かやっても報酬が支払われない。それはゲームの評価対象外であり、やっても特に意味のないことである。意味を持たせてもらえない行動である。だだっぴろい世界をだらだら走って、時にはNPCを撃ってみても体験という報酬が支払われない。「自由であってもそこに感動はない」のが、蜃気楼となった「自由度」の末路である。

「○○したら報酬が貰える」というのは、「○○しなきゃ報酬が貰えない」に等しい。この艦を使わなきゃルートを固定出来ない。このモンスターを手に入れなければ突破は難しい。ゲーム内で愛しの誰かさんは価値を持たせてもらえない。そんなことがあったとしたら、それは見掛け倒しの自由とその犠牲者である。

自由という言葉で覆い隠されたもの、覆い隠してしまったものは何だったのか。

指向性なき世界というのは、存外に退屈である。
報酬なき行動というのは、専ら無味乾燥としている。
影響を及ぼせない活動というのは、虚空に叫ぶのと似ている。
それは人生においても、ゲームにおいても変わりない。

 

ラブライブ!サンシャイン!!5話。中二病でもスクールアイドルがしたい!

ルビまる回、あまりの尊さに言葉が行方不明になってしまった。で、それに続いての5話である。花丸ちゃんルビィちゃん相手のときは受け受けしいのにヨハネ相手のときはジト目攻めなのなんなの?一年生トリオ美味しすぎる。まったくラブライブ!は今も昔も公式が最大手だぜ。

 さて、善子回である。5話は善子回であると同時に、ラッシャイ初のワチャワチャ回であった。未来ずら。未来ずらよ、ルビィちゃん。

浦の星堕天祭り

他人からの反応が欲しい!注目を集めるならこれだ!とラブライブ!2期6話を彷彿とさせる事を言い出したAqoursちゃんたち。幸運なことに部活アイドルだのKISSのコスプレだのをさせられずに済んだし、衣装についても大変かわいらしいゴスロリ風ということで変な方向に行かなくて本当に良かった。悲劇は二度と繰り返してはいけない(戒め)

ファイブマーメイドのくだりですっかり馴染んでいる梨子や、先輩たちの冗談に乗っかっていくルビまるを描くのも非常に良い。というかすっかり梨子が前作での海未役になっている。千歌の家でみんなで衣装を試着して騒ぐのも5人になったからこそのワチャワチャ感である。3人集まるどころか6人集まっても文殊陥落の様相。まあ結果から言えば一発限りで終わるのだが、それも彼女たちの踏み出した一歩のひとつであった。

前半のこのワチャワチャ感が「やってみたけど駄目だったよ」という善子のくすぶりと、気持ちのいい早朝ストレート猛ダッシュに繋がっていくのだからラッシャイはたまらない。

「いつか羽根が生えて」

そして津島善子自体の話をしよう。彼女の素晴らしいところは既にネットアイドルとして大成しているところである。ニコ生は大盛況な上に、ルビィがささっと検索して見つけられる程度には有名のようだ。1年の頃失敗し、そのあと2年間を薄暗いアイドル研究部の部室で過ごした音ノ木坂の妖怪とはえらい違いである。1年の1学期(動画の投稿時期から推測するに7月)にリカバー出来て良かった。ああ、本当に良かった。

で。

でだ。

善子は既に、ヨハネとして受け入れてくれる場所を見つけていた。カーテンを閉め切った部屋で、Webを通じて誰かと既に分かり合えていた。しかし、彼女はそれを続けることを良しとしない。「堕天使ヨハネとして振る舞う事」と同じように、「学校に行くふつうの女子高生になる事」も、彼女の立派なやりたいこと。

朝に登校して、
クラスメイトに挨拶して、
部活動に出て、
友達の家に行って、
誰かと一緒に何かをやる。
そんな当たり前が彼女のやりたい事だった。

善子の良いところは、周囲が若干引いていることにきちんと気付けるところだ。あれが教室で暴走する善子を花丸が止めて、「分からなかった」と部室で喚く展開だったら目も当てられなかった。そこら辺のバランス感覚が今作非常によろしい。善子は「何とかして!」と頼める誰かに女の子なのです。

何とかしようと頑張ってみた。頑張ってみるもそれはやっぱり付け焼き刃で、しまいには巻き込んだ皆まで一緒に怒られてしまう。「一緒にいたら迷惑がかかるから」と離れていく彼女を、Aqoursの皆は止める事が出来ないのでした。

 

いつか羽根が生えて、天に帰る。

それは実現し得ないと分かっていても、子供の頃の夢だったから。いつか本当にそうなると、信じていた夢だから。自分が普通の女の子だったとしても、それを信じていた事まで嘘にする必要はない。フェルトの羽根だったとしても、彼女は羽根を生やして確かに輝こうとしていた。そうやって輝きたかった事まで、嘘にして得る普通は本当に楽しいだろうか?

アイドルになりたかった。地味なままでいたくなかった。スクールアイドルが憧れだった。もっと上手にピアノを弾きたかった。音楽をここで終わらせたくなかった。スカートを履いてみたかった。自分も誰かとユニットを組んでみたかった。ラブソングを歌ってみたかった。仲間が欲しかった。

きっかけはちっぽけでも良い。ちょっと恥ずかしくなるような理由でもいい。確かに周りがちょっと引いちゃうような事なら自制して、はっちゃける時は思い切り堕天使をキメちゃえばいい。そうやって振る舞うのが最高に格好いいと思っているのなら、それを諦める必要なんかどこにもないのだ。リア充になりたいからって、羽根を捨てることなんてないのだ。

自分の好きを、迷わずに見せる。
それこそが学生たちの間で「スクールアイドル」がA-RISEとμ'sの後も脈々と続いてきた原動力だった。

一度は捨てた羽根を、千歌から受け取る善子。
微笑む彼女はもうひとりぼっちではないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 そしていつものように不穏なクリフハンガーで終わる第5話。
いつになったらマリィさんは参加するのやら…

ラブライブ!サンシャイン!!4話。5年後の君にもあげるよ元気。

スカートが似合わないから。

口調が変だから。
人前に立てないから。
運動が苦手だから。
将来が決まっているから。
今まで続けてきた事に背くことになるから。
おねえちゃんがかなしむから。
 
スクールアイドルなんて、私には出来ない。
 
 

眩しい夢に気づいた君に

ラブライブ!サンシャイン!!(以下ラッシャイ)の4話、完璧である。完璧すぎて今更僕が書くことなんてあろうか。いや、ない。
 
ないのは寂しいので思いの限りを書く。
 
 
国木田花丸と黒澤ルビィ。
それこそ子供の頃からスクールアイドルが大好きだったルビィと対照的なのが、今までスクールアイドルにそれほど関心のなかった花丸だ。
 
ルビィの夢を後押しするのが、ユメノトビラを開くのが夢。とっくに夢に気づいている君を、輝くステージへ送るのが夢。そんな花丸を動かしたのは、歌や踊りでなく一枚の写真だった。
 
当時、高校一年生。秋のファッションショーに招かれてのライブ。その時の写真である。
 
憧れ方だって十人十色。国木田花丸が見つけた夢の鼓動は、「悩まないで夢を見よう」という歌の通りに動き出したのだ。街頭の大型モニタに映し出される姿に憧れを抱くものもいれば、本屋で立ち読みした雑誌から始まる夢もある。
 
ルビィを送り出し、また一人で図書室へ戻る花丸のシーン。名残惜しそうにページを閉じる指の演出がまた素晴らしい。たった1枚の写真、そこに至るまでの物語を私達は知っている。そしてその物語を親友である花丸に語るのは、背中を押された黒澤ルビィだった。
 
だからね あげるよ元気 そのままの笑顔で
歌おう 歌おう あげるよ元気 悩まないで夢を見よう
 
ショートカットの、実は恥ずかしがりな、一人のスクールアイドルが居た。その女の子の姿は5年経った今も、誰かの心を動かしていた。やっとμ'sだけでなく、「スクールアイドルのいる世界」を描けるに至ったラッシャイはこれからも見逃せない。

ラブライブ!サンシャイン!!3話 side-A だから千歌は羽根を掴まなかった。

ラブライブ!サンシャイン!!(以下ラッシャイ)は、ラブライブ2!ではない。当たり前の話だが、とても大事なことだ。ラブライブ!の流れを汲めども、ラッシャイは続編ではなく新シリーズである。

君のこころは輝いてるかい?』(以下『君ここ』)のMVをご覧になったことがあるだろうか。なければ今すぐYoutubeで見ることを勧める。ある程度キャラの名前と顔を覚えた今ならば、その情報の洪水に流されることなくすべてを受け止められるだろう。
 
さて『君ここ』のMV冒頭、千歌が見送るのは一羽の鳥だ。その鳥は羽根を落としていくのだが、千歌はそれを掴まない。ただ微笑むだけである。
 
羽根。それはラブライブ!本編で夢や輝き、青春の象徴として幾度となく現れ、2期ではそれを手にして微笑む各メンバーが描かれたキーアイテムである。そしてμ'sは沢山の羽根を散らして、羽ばたいていった。「産毛の小鳥たちもいつか空に羽ばたく」と、歌った通りに。
 
話を戻そう。千歌は羽根を拾わなかった。その輝きに圧倒されながら、夢に恋い焦がれながら、いつか歩いていく彼方の夢としてスクールアイドルプロジェクトをスタートさせた彼女は、羽根を拾わなかったのだ。
 
普通、羽根は拾うだろう。そうして「受け継がれた」「続いた」と、湧き上がるのが視聴者だ。しかし千歌は羽根を拾わない。何故だろうか?μ'sの伝えたかった「スクールアイドルの素晴らしさ」は、届かなかったのだろうか?
 
それに対して、明確な答えを打ち出したのがラッシャイ3話「ファーストステップ」であったと思う。
 
暗闇と輝き
 
ファーストライブを迎えるのは、前作の0人よりも更に生々しくなった「数人」の観客であった。それでも彼女たちは臆する事なく、自分たちのステージを披露する。問題はその後。悪天候により照明が落ちてしまうのだ。
 
アイドル、ひいては演者というのは、自分と、観客と、そして舞台があってはじめて「演じる」ことが可能となる。そこから光を奪ってしまっては、観客は見えず、暗闇にただ一人となってしまう。
 
暗闇の中、誰に届いているかもわからないまま歌い続けられるほどの強さを少女に求めるのはあまりに酷だろう。自分も変われないし、誰かを変えられるかもわからない。歌声は嗚咽の中に消える。「こんな筈じゃなかった」と誰もが思ったとその時、光が戻る。
 
「誰か」が、そう望んだのだ。
「誰か」が、そうあれと望んだのだ。
そう在れ。「アイドル」よ、そう在れ。
 
彼女らは歌った。精一杯の声で歌った。満員の観客の前で歌った。その姿は例え拙かったとしても、誰かの輝きに足るには十分なステージであったと僕は思う。
 
暗闇と輝き。「スクールアイドル」を描くにあたり、これほど的確な描き方もなかなかないのではなかろうか。
 
輝きたい。
 
「(μ'sの)彼女達はいいました。スクールアイドルはこれからも広がっていく。どこまでだって行ける。どんな夢だって叶えられると」
 
それは、μ'sの言葉と、μ'sの夢だ。Aqoursだけでなく、全国の人々に光を与えた、μ'sの輝きだ。
 
それに対して黒澤ダイヤは言った。これは今までのスクールアイドルの努力と、街の人の善意による成功であると。
 
スクールアイドルの努力。それは作中で言うならばA-RISEやμ'sを始めとしたグループたちの活動そのものを指す。だが、少しカメラを引いてみればどうだろう。スクールアイドルの努力。大人気のスクールアイドル。東京では流行ってる。即ち、ラブライブ!の名を冠しているが故の成功だということにならないだろうか。μ'sの威光を借りた上での展開だろう?という問いかけにはならないだろうか。
 
街の人の善意。それは作中で言うならば沼津の人々の「おらが街のアイドルだから」とかけつけてくれた、地元愛を指す。別に彼女らじゃなくても、人々は沼津のスクールアイドルだったなら取り敢えずは来てくれただろう。そしてこれは、「ラブライブ!」の名を冠しているから……「μ'sの物語が良かったから」観ている視聴者の事にほかならない。
 
成功しているコンテンツだから成功している。成功しているコンテンツの新作だから見ている。それは別に彼女達でなくても成立してしまうし、それは彼女達の輝きそのものではないのだ。勘違いしないように。
 
しかし、Aqoursの3人は、それにこう応える。
「わかっています」、と。
 
「わかっています。でも、見ているだけじゃ始まらないって、上手く言えないけど、今しかない瞬間だから。」
 
「輝きたい。」
 
輝きたい。それは誰かの夢の続きではなく、彼女達が目覚めたばかりの「僕らの夢」だ。眩しい眩しい、気づいたらばかりの彼女たちの夢と青春だ。
 
だから千歌は羽根を拾わなかった。彼女達が向かっているのは、彼女達の夢に見る「彼女達の輝き」だからである。
 

 

青空Jumping Heart

青空Jumping Heart

 

 

 

 
まさかの「過去作と同じではなく、それに乗っかるだけの物語ではない」宣言をぶちかましたラッシャイ。今後も目が離せない作品にやりそうで、毎週土曜が待ち遠しい。

ラブライブ!サンシャイン!! 2話。梨子にとっての夢の扉と青春のプロローグについて。

キボウノユクエ 誰にも解らないね 確かめようと見つけようと走ってく

ラブライブ!サンシャイン!!2話である。概ね神。 以上。

 

 

あ、はい。書きます。記事を書きます。

詰め込みにつめこんで、チェックポイントを回る事にいっぱいいっぱいだった1話と比べると、2話は圧倒的なまでの熱量を叩きこんできた。正に「ラブライブ!」な回だった。1話の懸念は完全に払拭されたと言っていい。何よりμ'sが劇場版クライマックスで掲げた「スクールアイドルの素晴らしさ」は、様々な人たちに伝わっていたのだなあと世界がグッと広がった事を感じさせる回だった。

スクールアイドルとは。

何を思ったのか、テレビにおかっぱヘアーの俺達が出てきてしまった。

好きなのだ。μ'sが好きなのである。恐らく作品世界では数年前の存在であるμ'sが、たまらなく好きなのだ。それはダイヤも千歌も変わらない。μ'sに背中を押され、夢を見た筈なのだ。

その二人を分けているのは何か。

ダイヤの語るμ'sのそれは、正に「アイドル」への憧れそのものである。私は貴方よりずっと詳しく正しくμ'sが好き。だから貴方達のスクールアイドルは認められない。奇妙なことに、その姿はあのツインテールの妖怪によく似ていた。ポテトを盗み食いし、神社の境内で足首をつかむ女。そう、矢澤にこである。矢澤の叫びは、確かに届いていたんだ。

さて、千歌はどうだろう。彼女が語るのは「スクールアイドル」としてのμ'sである。梨子の「μ'sはなんていうか普通」という感想、もしもダイヤが聞いていたらカンカンにですわしていただろう。だが千歌はそうではない。

どこにでもいる、普通の女子高生。それなのに、あんなにキラキラと輝いている。自分もいつかそうなりたい。高校二年の春にやっと気付いたばかりの夢なのだ。「スノハレを作ったあの時の彼女たちはどうだったんだろう」と調べ、憧れを語る彼女はラッシャイに登場する誰よりも真剣に「スクールアイドル」になろうとしている。

千歌にとってμ'sは、自身で歩いていく彼方の存在だ。その輝きは憧れだとしても、彼女には決して「届かない夢」ではない。自分もそうなりたいと語る目標だ。

僕と君は同じだから。

梨子に対し「してほしい」を伝えるだけだった千歌。その千歌が「変わるよ、きっと」と、手を取るシーンは概ね神だった。自分に好意を向ける人の手をとって「変な人」って、百合なんだよな……

 

神という言葉で済ませられるなら私はブログなんぞやっていないので続ける。しかし言葉など、あの時彼女たちの聞いた海の音と比べてしまえばさして意味を持たないんじゃないだろうか。

光のささない海の暗闇では、何も見つけられない。だけども、不意に見た空があんなにも青かったなら。「僕も同じなんじゃないか」と思えるなら。きっと青春が、その瞬間に聞こえたんだ。

一人、その様子を遠巻きに見る果南。彼女にもその日が絶対来る。諦めちゃだめなんだ。

「わたしのすきなもの」

前回、自らのステージを見せるべきだと書いたわけだが、千歌はもっともっと基本的なことから始めた。つまり「スクールアイドルとはなんぞや?」というお話である。それも知識ではなく、「私はこういうところが好きです」と、目を輝かせながら白いノートにペンを走らせて。

その熱意に、梨子も動かされていく。「ユメノトビラ」。数年越しのμ'sからのメッセージと、千歌の温度にあてられて。

 

ユメノトビラ ずっと探し続けてた 君と僕とのつながりを探してた

ユメノトビラ 誰もが探してるよ 出会いの意味を見つけたいと願ってる

西木野真姫を覚えているだろうか。あのちょろツンデレを。あの恥ずかしがり屋を。あの自信家を。「決まっていた未来」、「終わっていた音楽」を倒し、勇気で未来を見せたスクールアイドルを。

彼女は「私の音楽はもう終わっている」と、決まっていた未来を憂いていた。ピアノの蓋を閉じたのは自分の意思ではなく、やがて訪れる誰かの望む未来の為であった。

さて、桜内梨子…彼女はどうだろうか?

彼女は自らの意思で蓋を閉じた。それは上達のしなさ、もっと言えば「変われなさ」から目を逸らすためだった。「どうやってもいずれ終わり」ではなく、「どうなるのか分からない」「どうすればいいのか分からない」から、ピアノから離れた。

 

先が見えない。それは先が決まり切っているのと同じぐらい、怖く辛いことと言っていいだろう。

 

ピアノを弾いている間はきらきらして、お星さまみたいに輝ける。ピアノの蓋は、桜内梨子にとっての夢の扉だった。閉じてからもずっと近くにあって、ずっと探し続けていた、ユメノトビラ

「今までの事を諦めるわけにはいかない」「本気でやっている人に失礼だ」と雁字搦めになっていた梨子に、千歌は手を差し伸べる。諦める事は無い。やってみて笑顔になれたらまた弾けばいい。やりたいこと、全部叶えていけばいい。

泣きながら変わりたいと願う梨子、皆を笑顔にするのがスクールアイドルだと手を伸ばす千歌。梨子が「流石に届かないね」と諦めかけたその時、届かない星だとしても千歌は手を伸ばす。触れられなかったら、もう二度とその熱さは戻らないかもしれない。身を乗り出して手を差し伸べる千歌。

「待って!駄目っ!」

今、その手を伸ばしたかった。ゼロからの一歩は勇気が必要。だから半歩ずつ彼女たちは歩み寄った。「変わりたい」から、「今、未来、変えてみたくなった」から。

傍から見ていれば、馬鹿げたやりとりだ。
だけど彼女達にとっては、これが青春のプロローグなんだ。
一生懸命になるのはきっと、とても素敵な事だから。

  

ラブライブ!サンシャイン!!は決してラブライブ!の二番煎じではない。μ'sの見せた輝きと温度を胸に、いずれAqoursになる9人の、新しい夢の物語だ。来週を楽しみに待ちたい。

ラブライブ!サンシャイン!! 1話。千歌の空回りと「輝き」とは。

私は、ラブライブ!の為に東京に来た。
そしてこの夏、私は東京で青春まっしぐらの「眩しい夢」を目撃する。

ラブライブ!サンシャイン!!が始まったのだ。

さて、この記事では1話の千歌の空回りと「大人気のスクールアイドル」について考えてみようと思う。

完璧なラブライブ!1話の立ち上がりと比較すると盛大な肩透かしのラッシャイ1話

ラブライブ!サンシャイン!!といちいち書いてると長いので「ラッシャイ」と略すことにする。

ところでラブライブ!1話の立ち上げ方は、控えめに言って神であった。

 

  1. 音ノ木坂が廃校の危機にある事が分かる(最終目標の提示)
  2. 音ノ木が大好きな主人公は廃校を阻止したい(主人公の原動力)
  3. スクールアイドルを立ち上げて知名度を上げることを思いつく(手段)
  4. 超高校級のデザイナー、及びスクールアーチャーが加入する(同じ志を持つ仲間)
  5. ミトメラレナイワァ(ぽんこつ)
  6. 私、やっぱりやる!やるったらやる!

神である。ススメ→トゥモロウによるシメも相まって神である。何が良いってこの時点で既に3人のファンになってしまうのだ。この3人が何かやるんだなあっていうのが分かるのだ。A-RISEのシーンで稲狂いこと小泉嬢や音ノ木の妖怪YAZAWAが顔見せしているのも素晴らしい。こいつらもアイドル好きなんだなと一発で分かる。

ラブライブ!にはまさに現代の立志伝もしくは英雄譚としての魅力が詰まっていたのだ。

 

さて、ラッシャイである。

 

ラッシャイ1話は終始、高海千歌が空回りし続ける。そこには「μ'sという一つの光を見た」なる、原動力の提示しかない。1話のタイトル通り「輝きたい!」という燻りだけが転がっている。故に、未だに物語は転がり出していない。肩透かしのまま始まる特殊EDの『決めたよHand in Hand』にもどこか上滑りした感じがある。

この空回りは何なのか?

 

「大人気のスクールアイドル」?

 作中で千歌が言う事に対して、大人はおろか同じ生徒たちでさえ耳を貸そうとしない。そしてよりによって音ノ木出身の梨子によって、「大人気」というのは否定されてしまうのである。おお、嘆かわしや。前作では女子中学生が出待ちをする様すら描かれたというのに。

「大人気」と言っておきながら千歌はその「知っていて当然」という前提で勧誘を行っている。これでは人がついて来ない。彼女は動画を見たから凄い凄いと言っているだけで、道行く人はその凄さも、スクールアイドルの素晴らしさも知らないのである。

前提からして、彼女は空回りしていたのだ。

千歌がすべき事、それは「自身の輝くステージを人々に見せる事」だ。

ラブライブ!1期3話の素晴らしさはそこで、あの0人のライブを後のメンバーが目撃している事にある。3人のファーストライブから、誰も目を逸らすことなど出来なかったのだから。

千歌には、何もない。目標も、目的もない。あるのは「輝きたい!」という夢だけだ。言ってしまえば、廃校という危機はそこに無く、手段としてのスクールアイドルもそこに無く、寄り添う仲間と言えば渡辺曜ただ一人。それでも彼女は手を差し伸べる。やっと出会えた夢に向かうために。

ラブライブ!を下敷きにした上でラッシャイはまさにもう一度「学校でアイドル?」というところから始めようとしている、のかも知れない。3話までで一度ぶちかませるのか、今から楽しみで仕方ない。

投げた石の跳ねた数
梨子と話しながら千歌が投げた石は、水を切って跳ねていく。その数は、8回なのだ。千歌を除いて残りは8人。これは決して偶然ではないだろう。彼女が見つけた新しい夢の欠片は、他の8人の心にどのような波紋を呼んで行くのだろうか。
 
様々な意味で完璧では無いスタートを切ったラッシャイに、どうか眩しい夢が待っていますように。
 
1年トリオの出番が多ければいいなあと思いながら、待て次回。