この文を自由度という名の蜃気楼に捧ぐ

ニード・フォー・スピード モストウォンテッドという名作がある。Xbox360のローンチソフトにして、街中をフリーランして警察とおっかけっこをするタイプのカーアクションゲームの最高傑作だ。

このゲームの最大の特徴は「パースートブレイカー」と呼ばれる爆発・大破壊オブジェクトの存在だ。おっかけっこも多勢に無勢では無理があるので、超かっこよく通路を駆け抜けてガソリンスタンドの崩壊にパトカーを巻き込んで逃げちまえ!というアメリカン極まりないシステムである。

おっかけっこ、といっても脅威は後ろからやってくるだけではない。所謂アザーカー(一般車)や、真向かいから体当たりを目論む「ライノ」というパトカー、更には強固なバリケードにタイヤを破裂させるスパイクなど。妨害要素がてんこ盛りである。

さて、このゲームのアホな所は、そのパトカー共を華麗にぶっ飛ばした瞬間にカメラアングルが切り替わり、トリプルアクセルをかますパトカーと「ぶっ飛ばした超かっこいい俺」がスローモーションで映るシステムが搭載されている所に尽きる。

突如現れるアザーカーやライノ。空から追い詰めるヘリコプター。飛び交う無線。敷かれる包囲網。それらを掻い潜り、ふっ飛ばし、逃げるプレイヤー。街中に散りばめられたパースートブレイカーが「どこへ逃げてもいい自由」に一瞬だけ指向性を与える。そして「パースートブレイカーを用いての追手の排除」という短期目標をプレイヤーが設定し、それらを見事に達成した瞬間、最高に馬鹿馬鹿しい爆発や大崩壊やスローモーションで吹き飛ぶ車が「この世界にプレイヤーが与えた影響」を描く。

ゲームとは双方向性の娯楽である。世界に影響を与え、また世界から影響を及ぼされるからこそプレイヤーは必死に考える。そして自ら選んだ選択が予想通りに運び、時に予想を上回った時、脳からジュワッと汁が出るのだ。


自由度。
バズワードになり、そして死んで久しい。
自由は死んだ。自由とは何だ。


自由とは雨の中、傘をささずに踊る人間がいても良いことだと、とあるネゴシエーターは言った。


自由とは、1兆通りの組み合わせからオリジナルのbuildを設計する事だろうか。
自由とは、危害を加えて良いNPCに危害を加え、ゲーム世界から殺されそうになる事だろうか。
自由とは、10種類以上の武器と多彩な防具を組み合わせてモンスターとたたかうことだろうか。


むしろ自由でない、という話をすれば、自由でないものが分かるのかもしれない。


コールオブデューティは人を殺さねばならないので自由ではない。これはイカをわっしょいする過程で死ぬほど聞いた。
日本のRPGは自由ではない。これはFalloutNVの広告で掲げられた言葉だ。
無課金にはプレイの幅がない。不自由だ。課金って言葉は金を課すって書くんだから作る側がいう言葉であって消費者が支払うときに言う言葉じゃねえよな。閑話休題

自由ではないとはどういう事なのだろう。プレイ体験が画一化されることを自由ではないというのだろうか。「選ばされる」とプレイヤーが感じた時点で自由度は無くなるのだろうか。


自由度という言葉は、バズワードになった。
故に厳密な意味はない。本来使われるべき言葉を置き去りにして、僕らは自由を叫び過ぎた。


自由だから何だというのだ。箱庭の世界で暴れたところで、劇的な何かをもたらさない戦いは退屈極まりない。ジャストコーズというゲームを知っているだろうか。このゲームは「敵の猛攻を凌ぎ、施設を破壊しきる」という指向性や「敵の猛攻から防衛オブジェクトを守り切る」という指向性があってこそ輝き、だからこそメインシナリオや基地攻めがすこぶる面白い。しかしクリア後は退屈極まりない。ただでさえオーバーパワーの主人公が、散発的な敵の襲来を退けて終わりになるからだ。オープンワールドのゲームはこうなりがちである。メインシナリオの出来が良ければいいほど、指向性のなくなった世界は退屈に映る。

行動に見合った報酬が支払われる、というのは報酬をあてにした指向性をもたらす。オープンワールドでゾンビを爆発物付き鎌でずたずたにするのは、ひとえに経験値のためである。人は暴れるにしても報酬を貰わないと暴れがいがないとぞ喚く大変面倒くさい生き物なのだ。

こんな選択をしても評価をちゃんとしてくれる!自由だ!といえばスプリンターセル ブラックリストである。ステルス、アサルト、ノーキルなどなど、あの手この手で評価と報酬をよこすのは各々の目標設定という自由を許容する。

ゲーム内で短期目標を提示する。その目標に達するため、何をすべきかという小さな目標を設定する。それに向けて遊ぶ。その結果報酬を得る。更なる報酬の為短期目標をクリアする。この小さな目標の設定とクリア方法をどうやっても良い。どれを選んでも良い。というのは確かに自由の一つの形である。

ゲーム内で何かやっても報酬が支払われない。それはゲームの評価対象外であり、やっても特に意味のないことである。意味を持たせてもらえない行動である。だだっぴろい世界をだらだら走って、時にはNPCを撃ってみても体験という報酬が支払われない。「自由であってもそこに感動はない」のが、蜃気楼となった「自由度」の末路である。

「○○したら報酬が貰える」というのは、「○○しなきゃ報酬が貰えない」に等しい。この艦を使わなきゃルートを固定出来ない。このモンスターを手に入れなければ突破は難しい。ゲーム内で愛しの誰かさんは価値を持たせてもらえない。そんなことがあったとしたら、それは見掛け倒しの自由とその犠牲者である。

自由という言葉で覆い隠されたもの、覆い隠してしまったものは何だったのか。

指向性なき世界というのは、存外に退屈である。
報酬なき行動というのは、専ら無味乾燥としている。
影響を及ぼせない活動というのは、虚空に叫ぶのと似ている。
それは人生においても、ゲームにおいても変わりない。