漫画とかアニメとかゲームとかで他作品との類似点を箇条書きマジックで挙げて、例えそうだったとして糾弾する理屈よくわかんねーんだけど

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英霊剣豪七番勝負クッソ面白かったぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

以下、余談です。

英霊剣豪七番勝負のネタバレを含みます。

 

1.お前は衛宮士郎の何を見ていたんだ。

「これらは全て偽物、おまえの言う取るに足らない存在だ。だがな、偽物が本物にかなわないなんて道理はない!」とは、Fate/stay nightの主人公、衛宮士郎のセリフです。

 さて、似ているから。同じだから。だから何だと言うのでしょう。もしそれが見かけだけでなく「面白さ」まで似せられたのなら、もう私はそれを「亜種」だろうが「贋作」だろうが褒めていいと思っています。大概の場合、「見かけ」や「キーになる仕掛け」だけを真似て肝心の面白さをまともに提供出来ないから「見かけ倒し」となるわけですし。それを履き違えて「似ていること」そのものを糾弾するのは筋違いなのではないかと思います。誤認させようとした模造品や複製品とは訳がちがうでしょうに。

 寧ろ同じ事をやって、その上でどうヒネっていくか。それこそ見せ所であり、それらの作品群はいずれ「ジャンル」というものを形成すると思うのですがいかがでしょうか?

 そう、私は○○みたいなゲームがあるなら遊び倒してみたいですし、××みたいなアニメがあるなら是非お金を払ってでも見たい。その事を凄いと思った誰かが、誰かなりにやろうと思ってみた事を「これとここが同じだから駄目」などと言う理由が僕にはわからないわけです。誰かその理屈を教えてください。同じだからなんだって言うんですか。

 

 それにしたって今回の天草四郎、プレインズウォーカー(仮称)なのは良いとしてもうちょっとこう、パライソちゃんとか段蔵ちゃんぐらいの話を見せてくれても良かった気がしますけどね。バトル面でもダブルBBちゃんWith玉藻にバカスカ注射打たれて死んでいくだけでしたし、アポクリファ放送中にもかかわらず非常にもったいなかったと思います。どうせならアポベース(サーヴァント)と人間(プレインズウォーカー)が天守閣で対峙するぐらいやってもよかったように思えますが、そうすると武蔵ちゃんの物語じゃなくなってしまいますものね。難しい。

 

2.お前は衛宮士郎の何を見ていたんだ。

 引き続き衛宮士郎の話をしましょう。衛宮士郎という人間の理想というのは借り物であり、「願い」や「意志」というのがすっぽ抜けた、こうあるべきというだけのものでした。そこに血の通った意志はなく、故に「理想を抱いて溺死しろ」とアーチャーからの糾弾を受けるわけです。

 UBWのクライマックスのひとつは、そんな衛宮士郎が「この夢は決して…俺が最後まで偽物であっても、決して…!間違いなんかじゃないんだから!」と理想だけに殉じて擦り切れていったアーチャーを撃破し、本物に限りなく近づこうと願うシーンです。ただ「同じ」なだけの生き方から、更に一歩先へと進もうとするのです。

 そう、ただ「同じ」なだけではなく、本物になろうとした「偽物」である事に、Fateというのはひどく自覚的な物語であると言えるでしょう。そうでなければギルガメッシュにわざわざ主人公を「贋作者(フェイカー)などと呼称させません。

 故にもう一度問いたい。「同じ」だから、「オリジナルでない」から。それだけで何だって言うんですか。

3.そしてお前は英霊剣豪七番勝負で千子村正の何を見ていたんだ

『亜種並行世界 屍山血河舞台 下総国 英霊剣豪七番勝負』のクライマックスは「千子村正」が都牟刈村正を抜き、厭離穢土城を真っ二つにするシーンです。

 ただ生きるだけでなく、ただ斬るだけでなく、宿業すら断つ一刀。それが村正の求めた一振り。そこへ更に、依代となった青年の生き様も重なります。かつて無限の剣を打ち、意味など不要(いら)ずと叫んだ青年の生き様は巡り巡って「収斂」し、たった一振りの剣を作りあげるのです。

 おぬいちゃんや田助くんが笑って暮らせるような、もう誰も泣かない世界のために。剣豪の世を、乱世を、そして目の前の「何もかもが燃え盛る光景」を両断する一刀。専用BGMやイラストも相まって心震える展開であったとおもいます。

 

 さて、こんなクライマックス、他の作品に本当に「同じ」ようなのがあったんでしょうか。十余年あまりのうちに、偽物は偽物のまま、本物と見紛うばかりの輝きを放つようになりました。それが衛宮士郎というキャラクターと、Fateの積み重ねであり、またTYPE-MOONの積み重ねであることは言うまでもありません。

 こんなクライマックスすら箇条書きの中に埋もれて行くのなら、それは物を語るのではなく物を騙っているとすら思うのです。どういう理屈なのか、教えていただければ幸いです。