創作物における90年代の便利さの話

携帯電話は便利だ。
別に現実世界の生活における利便性でなく、作劇上の話である。家に帰ってなくても電話が出来るし、急な呼び出しだって可能だ。メールで別々の場所に居ながらにしてチャットも出来る。便利だ。すこぶる便利だ。

が、「この寒空の下あなたは何処に居るの会いたいヨヨヨ」だの、「こんな夜にあなたの声が聴けたらと思うのに」だの、そんなすれ違いを演出するのには便利すぎる。そんなのメールとか電話すればいいじゃん何で電話しねえの嘘くせぇ。となる。手紙だって既に廃れかけているし。いろいろとお約束が使えない。「どうして返事をしなかったの」「ごめん電池が切れちゃってて」なんてのは、張り倒されても文句が言えない。世知辛い世の中である。

そんな感じで、敢えて作品の舞台を90年代や昭和時代に置いて、思う存分すれ違ったりブルマを出したり手紙でときめいたり雨や雪の日の公衆電話から相手にかけたりする「ノスタルジックジュブナイル」「オールドジュブナイル」とでも言うべきジャンルが形成されつつあるのかなあと考えている。今のご時世携帯電話を持ってる生徒と持ってない生徒が同じクラスに存在するなんて考えにくい話だろうしね。プリキュアだって携帯電話持ってるご時世である。

意図的に20世紀末で時を止めているのは何も恋愛や青少年の成長を主軸にした作品だけではなく、例えばブラックラグーンのような闇社会ものガンアクションだってそう。「事務所にゃいねえぜ」「あれ、じゃあどこ行ったってんだ?」「バーじゃあねえの?」みたいなやり取りは携帯があっちゃあ成り立たない。

北斗の拳とはまた違った形で、199X年は何処までも続いていく。というお話。