プレイヤーを攻撃する前にコントローラを置くべきいくつかの理由。

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対戦ゲームというのはシステムを使い倒し、マップを研究し倒し、最強の組み合わせで、最善の行動をとり合うゲームである。チャトランガから派生した数多の二人零和有限確定完全情報ゲームであれば「読みの深さ」「戦略」の競い合いとなったが、昨今の電子ゲームでは準備の段階から戦闘が既に始まっている。

ユニットの種類、武器の種類、アクセサリの種類、利用する特殊スキル、成長の度合いさせかた等々。そうやっているうち、製作者のデザインの予想の内か外かは分からないが、「エゲつないほど強い組み合わせ」が出来てしまう事がある。数万、数億という組み合わせの中から産み出されてしまったそれは瞬く間にプレイヤーの間に広がり、浸透していく。

最早テンプレートと化したそれは「強キャラ」「厨武器」そしてみょうちくりんな蔑称で呼ばれ、それを利用するプレイヤーは次第にプレイヤー間で忌避されるようになる。あまりにもそれらを見かける場合、「量産型」呼ばわりもされるだろう。それほどまで、人は「効率的」で「強い」物を嫌う。

だが待って欲しい。それはゲームという用意されたシステムの中で、最大公約数的に強く、システムに最適化したが故の行動ではなかろうか。ゲームは勝つために遊び、勝つためにはシステムを使い倒すのは当たり前の話だ。その最適化をするうえでの模索こそがゲームである。

いつだって「こうやって遊ぶのは楽しい」けど「勝つならこうするしかないよね」という、悲しい二択をゲーマーは迫られる。複数の組み合わせを保存して置けるゲームなら、「遊び用」の組み合わせと「勝つ用」の組み合わせを用意するのは当然だろう。

「強キャラ」と戦うのは面白くないかもしれない。
「強行動」の相手をするのは楽しくないだろう。
「テンプレ」とやり合うのは飽き飽きだろうと思う。

だけども悲しいことに、それをやれてしまう事が、それが放置されている現実が、そのゲームの「浅さ」である。言い換えてみれば、そうならないようにいくつもの手段があり、対抗手段が何すくみにもなっているゲームこそが「奥深い」と言われる所以だ。

強力な爆発物を幾らでも使えたり、驚異的な精度を誇る高威力武器が全距離で使えたり、敵のどんな行動に対しても大抵有利だったり、それにプレイヤー性能が加わるともう手が付けられなかったりする。銃を撃ったのにその相手にナイフで刺殺されたり、ショットガンで葬られるのだってしょっちゅうだろう。待った方が圧倒的有利なポジションから人が出てこなくて難儀した事だって一度じゃない。敵がミニマップに映らなくてかくれんぼが始まった事だって一度や二度じゃない。

それは、ゲームのシステムを「利用」した結果だ。
仕方ないだろう、「そう出来る」事をシステムが保証している。
システムがプレイヤーに「そうした方が強い」と証明している。

「これさえ無ければ面白いのに」……そう言いたいのも分かる。だけども現実は、目の前にあるプログラムはそうはならなかった。ゲームはそこに行き着いてしまった。もうそれは行き止まりだ。「余分な物」「不要な行動」を捨て、無駄を省く事を「洗練」という。例えその姿があなたの目に醜く見えたとしても、それはそのゲームにとって「洗練」された姿なのである。

だから、腕を磨きそれを潰す事を生き甲斐にでもしない限り、不快感を抱いた時点で止めた方が良い。効率化された結果の最適な動きをするプレイヤーを許容できず、プレイヤー自体を攻撃したくなったならコントローラを置いた方が良い。筐体から離れクレジットを投入する事を止めた方が良い。

システムがプレイヤーをそうするように導いた。その結末を受け入れられないなら、そのゲームを諦めた方が良い。例えそれが対戦アクションの最新作でも。例えそれが自分の財布から何千円も支払ったゲームのマルチプレイヤーでも。だ。