クッキークリッカーという名のゲームポルノについて
二年前。
人々は。
狂ったように。
クッキーを。
焼いた。
Bake to the future.
剥き出しのゲーム
クリックすると、クッキーが焼ける。
プレイヤーがクリックすると、クッキーが焼ける。これはインタラクティブである。ボタンを押すと数字が変わる。影響が及ぼせる。楽しい。
物を買う。クッキーの生産量が増える。クッキーの生産量が増えるということは更に物が買えるということだ。数字がどんどん増える。楽しい。
そのうちプレイヤーはある事に気付く。クッキーの生産量は、費やした時間に比例する。即ち、クッキーとは時間を変換して得られた数字である。クッキーは時間を費やさねば得られない。
プレイヤーはどの設備を、どのタイミングで、どう購入するか考えだす。どうすればより効率的にクッキーを焼けるのか。いつ、いくらの物にクッキーを支払えばそれの元は取れるのか。クッキーは投資となった。楽しい。
プレイヤーの目の前に、ランダムに金色のクッキーが現れた。クリックすると、クッキーがドバーッと溢れ出した。楽しい。異様にクッキーが増える。楽しい。
そして気付くと、プレイヤーの目の前にはとにかく放置しないと買えないほど高価なアイテムだけが残った。最早1クリックではさして世界に影響が無い。手応えがない。変わらないものに関わっても面白くない。
その時、プレイヤーはクッキークリッカーをクリアする。
ゲームポルノ
さて、クッキークリッカーとは何なのか。
あれは、剥き出しのゲームである。クッキークリッカーはまごうこと無き、ゲームなのである。
例えば日本のRPGのことを考えてみよう。敵と戦う。なんやかんやあって倒す。金と経験値が手に入る。その結果強くなる。楽しい。
バトルとは金と経験値を増やすための儀式に過ぎない。「レベル」も「装備」も「スキル」も「金」も、全てはプレイした時間を変換したものである。時間をゲーム内に物質化し、ゲーム内の数字にしたものである。
行動すると数字が増えることは楽しいのだ。己の行動が蓄積されていく様を見るのは楽しいのだ。普段はそれを冒険というたのしいおはなしや、装備というアイコンや、キャラクターという泥人形が覆って演出してくれているのである。
それをクッキークリッカーは、あまりにも露骨に、目の背けようがない程につきつけてくるのだ。
最早それはポルノだ。
「ゲームの楽しさ」をそのまま短時間で濃厚に消費するためのポルノだ。
クッキークリッカーはゲームポルノ以外のなにものでもない。
クッキーを採掘し、タイムパラドックスを解決し、ババアの意識を統合し、光をクッキーにするポルノだ。
そして一部のプレイヤーはとある考えに至る。
「クリックを自動化出来るのではないか?」「フリーソフトで1秒に1000回クリックするとかあるんじゃね?」
「ここに僕がいる必要はあるのか?」
チートである。
時間を変換するしかないと気付いた一部の者は、システムをハックする。ゲームというプログラムを、プログラムにし尽くす。
どう入力すればどう出力されるのか。
それはある種、ゲームに最も誠実に向き合う者である。
そして当然のように、彼らを非難する者も現れる。
「そんな風にして何が楽しいのだ」
「そんな風に焼いてもゲーム寿命を早めるだけで勿体無い」
「そうやって遊んでもなんにもならない」
「自分で焼いてこそ達成感がある」
クッキークリッカーというゲームが、そんなゲームだと突きつけられたからこそ、人々はチートを嫌悪する。
クッキークリッカーをゲームと呼んでいいのか、あんなものをゲームと呼んでいいのか、僕は今でも少し躊躇う。だが、あの時。人生のうち数日をクッキーを焼くことに費やしたあの時間。たしかに私はクッキークリッカーというゲームを、ゲームとして大いに楽しんでしまったのだ。
ああ。
勇者の冒険は、クッキーだったのだ。
出来上がっていく街は、クッキーだったのだ。
叩き出したダメージは、クッキーだったのだ。
艦娘も鎮守府も、クッキーだったのだ。
アイドルもプロダクションも、クッキーだったのだ。
課金ガチャもSSレアも、金色のクッキーだったのだ。
あなたはどんなクッキーが好きだろうか。
クリームを挟んだものだろうか。
アーモンドを混ぜたものだろうか。
育成だろうか。
コレクションだろうか。
スキル制だろうか。
ハクスラだろうか。
ローグライクだろうか。
装備の充実だろうか。
アイドルだろうか。
光の戦士だろうか。
サーヴァントだろうか。
ババアだろうか。
クッキークリッカー。
あの日焼いたクッキーは、ゲームの歯応えの正体を暴いてしまった。
チョコチップのほろ苦さと共に。