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ラブライブ!サンシャイン!!8話。そして始まる物語について。

アイドル。
偶像。
注目される人。
憧れの対象。
例え「他人からどう思われるかじゃない」と言えど、「他人からどうとも思われない」のでは、あまりにも報われない。

それが「スクールアイドル」が「アイドル」たる所以である。興行によって利益を生むだとか、それを生業とするだとかではない。ステージに立つ以上、観客が見てくれなければ、注目されなければ、心に残らねば、報われないのだ。

ラブライブ!サンシャイン!!(以下ラッシャイ)8話は、「スクールアイドル」が「アイドル」であるが故に、少女たちが「現実」と対峙する話であった。

でもSaint SnowはA-RISEより全然オーラ無かったしあれで「圧倒」みたいなこと言われても無理だと思います。酒井くんコンテもっと頑張って。(冷静)


そして夢が終わる。


周知さえすれば。人目さえ引ければ。キャラで目立てば。地味&地味&地味でもどうにかなるんじゃなかったのか。「東京」は、どうしようもなくAqoursの彼女達だけをステージに引きずり出した。生まれ育った故郷の住民ではなく「自分達を見に来たわけではない観客」の前では、彼女たちは「30組出てくるスクールアイドル」の1つでしかなかったのだ。


一年生が入ってくれれば、廃校なんて話でしか聞いてなかった状況が舞い込んできたのなら、ネットで動画が好評ならば、これだけ話がうまく転がったのなら「ラブライブ!優勝もあり得るのではないか」……高海千歌は、事あるごとにそう口にしてきた。スマホの画面の中で踊るμ's達は手が届きそうなほど地続きの存在で、だから手が届くんじゃないかと思っていた。


その結果が、得票0である。


しかもただの得票0ではない。彼女達にも手応えがあったのだ。一番ミスが少なく、のびのびと最高のパフォーマンスを出来たという手応えが。手応えがあったからこそ、尚の事自分たちに言い訳が立たなくなってしまった。一番先に泣いたのは、昔からスクールアイドルがやりたかった女の子、黒澤ルビィだった。うまく行かなかったのではないのだ。うまく出来ても、誰も選んでくれなかったのだ。


「くやしくないの?」


そう問いかけたのは、誰よりも高海千歌を知っていた渡辺曜だ。幼馴染がずっとずっと燻っていて、ようやく見つけた「やりたいこと」に付き合う為にスクールアイドルを始めた子だ。曜は千歌の側で輝き続け、そして幼馴染が輝くためにスクールアイドルを始めている。今はどうあれ、きっかけは千歌のためだ。


これまた渡辺曜は水泳大会の経験者で、桜内梨子はピアノコンクールの出場経験のある娘というのも大きい。何かを真剣に取り組んできたということは、真剣に続けてきたからこその悔しさを知っている。人に知られず流した涙がある。その彼女達の前で、千歌がとったのは「でも、満足だよ。私は嬉しかった。みんなであそこに立てて」……今まで通り、「やってみること」そのものへの言葉だけだった。


「わあ、すごい、キラキラしてる」というのは、輝らされて輝くモノを見る側の言葉だ。スカイツリーでアイスを皆に振る舞う時に妙に明るく放つのがこれなのだが、下手をすれば悪趣味になりかねないギリギリの演出だなあと私は思った。


変わる思い。変われない世界。


かつて浦の星にもスクールアイドルがいた。しかし彼女達は「廃校を回避するため」にスクールアイドルを始めた子達であり、スクールアイドルのためにスクールアイドルを始めたわけではなかった。


「外の人に見てもらうとか、ラブライブに優勝して学校を救うとか、そんなのは絶対に無理なんだよ。」


彼女達の動機は、自らの外側にあった。外側を変えることにあった。結果、彼女たちには世界を変えることは出来なかった。「自分たちには変えられない」という思い出だけが胸に残った。


だが、マリィはどうだろう?あの中で一人だけ、学校を救うために動いたわけではなく、誰かの為に歩きはじめた子ではないだろうか?そして唯一、「まだステージで歌っちゃいないこと」をわかって、今も走り回っている子ではないだろうか?


「果南」と呼びかけ広げたマリィの両腕は、かつて自分を変えてくれたそれと同じだ。

変わったんだから、変われる。

変ったけど、変えられない。

変えられなさに誰が傷付く前に、スクールアイドルプロジェクトはやめるべきだ。2年という時間は、少女の心の傷をジクジクと膿ませるのには十分過ぎる時間だった。果南とマリィはすれ違う。世界は変えられる。君がそう教えてくれた。「宝物だったあの時」を取り戻す為に、必要なものはなんだろう。きっとそれは、遠い彼方にあるわけじゃなく、何処かに置いてきてしまったものに違いない。


わたし、やっぱり、くやしいんだよ。


現3年生達のスクールアイドルと、千歌の違いは何だろう。私は「何かの為のスクールアイドルか、そうでないか」だと思う。千歌は、変わりたかった。輝きたかった。廃校という状況の為じゃなく。誰かの為でもなく。自分がそうしたかったから。結果、どうだったろう。練習をして、衣装を作って、歌を作って、パフォーマンスは出来た。それでも、夢の東京で手に入れたのは「0」だった。


「とにかく、行動します。」


闇雲に、いたずらに、無邪気に、思いつきで、輝いた目で、彼女は走ってきた。意地の悪い言い方をすれば「スクールアイドルとして活動する事」そのものを千歌は面白がっていたふしがあった。「そう?面白くない?」で突き進んでしまう所があった。


「変わりたい」ばかりで、「どうしたい」のか、具体性のないまま千歌はここまできてしまった。ラッシャイ前半に漂っていた千歌のフワフワした印象は、まさにその通り演出されていたものだったのだ。そして千歌は、それと遂に対峙してしまった。


昔とは違うとか。
差がすごいあるとか。
周りのレベルが上がったとか。
数がどうだとか。
そんなの。
どうだっていい。


スクールアイドルがアイドルである以上、観客がいて、観客の心に残って、誰かにとっての輝きになってはじめてアイドルになれる。それが「0」だった。


「やっぱり、わたし、くやしいんだよ」


それはメタ的に見れば、アイドル物そのものの成熟や、ラブライブ!の名を冠しているが故の人気のある現状すら、全部吹き飛ばすような叫びだった。


「輝きたい。」

千歌は、梨子に始まりの日にそう言った。それは今も変わらない。だが、走り出してしまった今、言い出しっぺの彼女は、発起人だからこそ気丈に振る舞うしかなかった。責任だって感じていた。私が泣いたら皆が悲しむから、装うしかなかった。「笑顔にするのがスクールアイドル」という言葉は、彼女の呪いのようになってしまった。


「変わりたい。」

それは千歌だけじゃなく、皆同じだ。千歌の為にやっているのではない。自分がやりたいから一緒に来た、同じ夢を見た「仲間」だから。『泣いちゃえば、付き合うよほら』と、歌の通りに手を取ってくれた。


「私も知りたいの。それが出来るか。」

変わりたいと泣いた梨子に手を伸ばした千歌の手を、次は梨子が握る。笑顔にするのが、スクールアイドルだから。

『始めたいMy Story

『変えたいなMy Future』

Aqoursは、ここから始まる。わからないままで何とかなるさと始めて、面白そう!とジャンプして、さあおいで!と手を伸ばしてやっと0まで辿り着いた。ラブライブ!サンシャイン!!は8話かけて、ようやくここまで来ることが出来た。とは言え、そこにあったのは足踏みではなく、目標に向かって届こうとする全力疾走だった。

 

 

こうなると、1話のスカスカした感じが非常にもったいない。それとキャラ掘り下げにさして寄与しなかった7話もだ。こういう話を出来るのに、所々で詰めが甘いのもラブライブ!と言えばラブライブ!かもしれない。が、どうしても私は立ち上げから完璧だったμ'sの物語が8話で正式にスタートを切ったことを考えてしまう。現状だと1期のビシっとした筋の通り方と2期のシリアスになりきれないもわっとした感じが混在している。

とは言え、ここで「0を100にするのは無理かもしれない」という台詞や、「廃校の阻止」や「これからのスクールアイドル」の為に動いたμ'sとは違う「輝きたい」という目標が、Aqoursの物語を単なる続編やキャラ替えに留めていない。何より私はもっと見ていたいのだ。Aqours達がどんな風に輝いていくのか。

さしあたっては、果南にとっての『もう逃げないで進む時』がいつ来るのか。早いところ彼女をもう楽にしてあげて欲しい。確かに現3年のスクールアイドル計画は失敗して、傷ついて、涙を流したかもしれない。だけども、千歌達はいっぱい泣いて、手を繋いで、また屋上へかけ出した。絶対に同じ結末は辿らない。


傷つくかもしれない。泣くことだってあるだろう。時にはぶつかり合うことだって。だけど彼女達はこう歌ったから。きっと大丈夫。

『何が起こるか分からないのも楽しみさ!』

って。だから、きっとダイジョウブなんですよ。大好きがあれば。

ラブライブ!サンシャイン!!7話と半分を過ぎたのでちょっとまとめ。

Aqoursが東京にやってきた。

7話は今までの中で1番ラブライブ!2期に近い話だった。つまりキャラに深みを与えるというよりはキャラに突飛な行動をさせて笑わせるというアレである。それは二次創作の領分であり、キャラを魅力的に描くべき大本がやるもんじゃねえだろというやつだ。既に聞いた人にはわかるだろうが、トリオユニットCDのドラマパートも割と酷い(褒め言葉ではない)のでまだ聞いてない人は聞かないでほしい。何が駄目って身内もそうだが他人に思い切り迷惑をかける話なのである。

白塗り、というのはラブライブ!2期で傷を負った者にはトラウマワードであるが、見事ラッシャイでは善子がその役を務めることになった。ああ、なんとかわいそうに。君は他人から痛い子と思われたくなかったはずなのに周囲の人が悲鳴を上げて逃げても止めない子に描かれてしまった。

 

というわけで各話ごとにエモさの話をしてもしょうがないので今回の記事では前半までの疑問点まとめです。

 

何処で彼女らの夢を地続きにさせるのか

Aqoursは現状、大きな苦難や挫折に出くわしていない。ファーストライブは大盛況で、ネットも彼女らに好意的な人たちばかり。新PVも好評だ。

そして千歌。彼女は所々で「ラブライブ優勝だよ!」と口にしている。浮かれているのもあるが、彼女は誰かと競い合っていることそのものを忘れているように思える。夢と言ってもキラキラした憧れの中だ。

そして行動も今は目下模索中、ようやく伝えたい言葉の尻尾を掴めた所だ。まだ「輝きたい」というふわふわした所から抜け出せていない。

真剣に取り組んで、歌って、ステージを作る。それを言葉だけの「本気」でなく、行動で示したのが「ランキングに登録して、ライブをやっただけのμ's」である。

今のままではμ'sのファンになった高校生たちが、自分らもやってみようぜ~と寄せ集まっただけの話になってしまう。これが10年前だったら『SOS団』なんて名前だったかもしれないなあと思う程度に。

 

3人の矢澤にこみたいな状態の3年生

ラブライブ!1期5話の素晴らしいところというか、ほぼアニメオリジナルキャラクターと言ってもいいほど他の時空の要素が残っていない矢澤にこがあれだけ格好良くなり、人々に好かれたのは、「かつてスクールアイドルを志したが夢破れた女」「だが今一度立ち上がることを決めた女」「自分が最高に輝く姿を思い描き、雨上がりに最高のにっこにっこにーを決めた女」という清々しいまでのいい女っぷりをなんとたった1話でやりきったことにある。

対してラッシャイ。ようやく断片的に「果南が東京でのライブでトラウマを負い、現3年生3人のユニットは散り散りになってしまった」という事が明かされつつあるが、そんなジメジメしたやりとりを実に7話になってもまーだやってるのである。

つくづく話の引き締め役としての東條希や外側から話を動かすキャラとしてのアリーチカが良い立ち回りをしたのだなあと思わされる。正直3人の過去はどうでもいいのだ。確かにかなまりやダイまりの濃厚なレズ二次創作の種を撒いてくれてはいるが、別に物語を前に進めるもんでもないんだ。

このブログではスパロボに参戦した劇場版ナデシコのアキト(ブラックサレナ)状態になってしまった松浦果南ちゃんを応援しています。噂によると7話までで喋った時間合計で2分未満だそうですよ。

 

画面外でライバルを殺した前作の罪

何やらセイントスノウなる姉妹ユニットが出てきた。が、どうでもよい。
というのも、前作では「スクールアイドルの頂点に君臨するA-RISE」という女王としてライバルが描かれ、登場人物もそれ故に緊張していたわけだ。が、今作の憧れは「μ's」だ。つまりもう人々の記憶の中の存在でしかない。そして彼女らがどれだけ凄いかは追いかけてきたファンであればあるほど知っている。それと比べるとポッと出の2人がどうだというのだ。

また、別の懸念というか前例という物がある。即ち「ライバルは何か知らんが倒してた」というスノハレ回の罪である。2期の酷さの象徴とも言える雪中行軍からのレズスパルタンでA-RISEはしめやかに画面外で爆散!そういう事をやって、劇場版でなんとかもう一度「アイドルとして存続していく人たち」としての役目を与えてもらえたのがA-RISEなわけで、テレビシリーズだけ見たらほんとうに可哀想な人達だ。

26話+映画でようやくそうなったのがライバルだ。9人でなく6+3で3の問題もまだ片付いていないのに、神田明神でライバルが出たからって何だというのだろう。というのが率直な意見である。

 

 

 

というわけで、次回は「地元の人達が応援してくれてたのに」系のがっくり感でAqoursちゃんたちが相当凹むんだろうけど、話を回して欲しいなあ。ダイエット回が2回連続で来たような感じですよ今ん所。

 

 

ラブライブ!サンシャイン!!6話。確かめたい夢を、やっとここから始める彼女達。

何を伝えたいのか。それは創作をする上でとても重要なことだ。書くことそのもの、描くことそのものに憧れるだけでは、筋が通らず芯も通らない。結局何を言いたかったのか。その心の剣さえ失わなければ人は歩いていける。

 ラッシャイ6話は、そんな「表現することそのものへの憧れ」からAqoursが一歩踏み出す回でした。

 

彼女たちの廃校

定期で沼津に行き放題!中学の友達に逢える!と考えると女子高生にとっては概ね楽しいことだらけでしょう。メリットしかない。現に千歌も花丸と廃統合でウキウキ。千歌は廃校の危機に乗じてPVを作ろうとするが…?というお話。

前半たっぷりかけて描かれるのは「行為そのものに憧れても具体性がなければどうしようもない」なんて、気恥ずかしくなるぐらいのワナビーの構図だ。面白いことが起きるかもとカメラを回しても何も起きやしなかった、なんてのは50年前からの当たり前ですよね。

町中駆けまわって、バスに乗って遠くの街へ行って、自転車で坂を上って、最後には皆で喫茶店でワイワイ騒ぐ。いつものような空回り。だけどその「いつも」がそう遠くない未来に終わるかもしれないと思ったとき……

まずは始めたからこそ、千歌は気付いた。浦の星が好きだったって事に。

 

助けて、ラブライブ!

自分たちで気付いて、自分達の言葉で語って、語るよりも歌って踊る。それが「おらが町のアイドル」としての「スクールアイドル」にはとても大切なことだ。歌うにしても「何を?」となっていたのが今までの彼女達だった。自分で気付けなきゃPVを作る資格がない。そういって微笑む千歌ちゃんは、すっかりスクールアイドルの顔になっていました。この子も、楽しそうに走る娘なんですね。穂乃果と同じで。

そしてもう一つ。とっくに前から、自分よりも浦の星もスクールアイドルも大好きで、ずっと自分の言葉で語ってきた存在が現れます。それが黒澤ルビィの姉にしてぱっつん前髪の黒澤ダイヤ。そんな事にもやっと気づけた千歌はダイヤに声をかけようとするが、それはルビィに止められてしまう。敢えて「スクールアイドルをやらない」事に拘る彼女と、三年生の過去の話が明らかになるのはまだ先のようです。

 

さて、内浦の海開きのシーン。ここで真っ先に気付いたのは、東京から来た梨子でした。沢山の人が来て、朝からゴミ拾いをするその光景は、内浦の人たちにとっては当たり前でも梨子にとっては新鮮なものだったわけです。「町には何もない」だなんてPV撮影の時に言っていた千歌が、「そうだ!」と階段を駆け上がり、町の人たちに協力を仰ぐ流れはラッシャイでなければ描けなかったでしょう。

確かめたい夢に出会えて
よかったねって呟いたよ

 「私、心の中でずっと叫んでた。助けてって。ここには何もないって。でも、違ったんだ。追いかけてみせるよ。ずっと。ずっと。この場所から始めよう。出来るんだ。」

”助けて、ラブライブ!
それは企画発表から、彼女達Aqoursに付きまとっていた言葉でした。その「助けて」は浦の星そのものを救う事だけでなく、地味&地味&地味で、変われなくて、変わりたくて、やりたい事が見つからなくて、やりたい事が分かっていても進めなくて、何もない場所で輝けないと思っていた彼女達そのものを表わしていた言葉でした。6話にして、やっと彼女たちの物語が始まろうとしています。


朝日が昇り、空へ人々の思いを乗せたランタンが飛び立っていきます。
見たことない夢の軌道を追いかけるように。

この文を自由度という名の蜃気楼に捧ぐ

ニード・フォー・スピード モストウォンテッドという名作がある。Xbox360のローンチソフトにして、街中をフリーランして警察とおっかけっこをするタイプのカーアクションゲームの最高傑作だ。

このゲームの最大の特徴は「パースートブレイカー」と呼ばれる爆発・大破壊オブジェクトの存在だ。おっかけっこも多勢に無勢では無理があるので、超かっこよく通路を駆け抜けてガソリンスタンドの崩壊にパトカーを巻き込んで逃げちまえ!というアメリカン極まりないシステムである。

おっかけっこ、といっても脅威は後ろからやってくるだけではない。所謂アザーカー(一般車)や、真向かいから体当たりを目論む「ライノ」というパトカー、更には強固なバリケードにタイヤを破裂させるスパイクなど。妨害要素がてんこ盛りである。

さて、このゲームのアホな所は、そのパトカー共を華麗にぶっ飛ばした瞬間にカメラアングルが切り替わり、トリプルアクセルをかますパトカーと「ぶっ飛ばした超かっこいい俺」がスローモーションで映るシステムが搭載されている所に尽きる。

突如現れるアザーカーやライノ。空から追い詰めるヘリコプター。飛び交う無線。敷かれる包囲網。それらを掻い潜り、ふっ飛ばし、逃げるプレイヤー。街中に散りばめられたパースートブレイカーが「どこへ逃げてもいい自由」に一瞬だけ指向性を与える。そして「パースートブレイカーを用いての追手の排除」という短期目標をプレイヤーが設定し、それらを見事に達成した瞬間、最高に馬鹿馬鹿しい爆発や大崩壊やスローモーションで吹き飛ぶ車が「この世界にプレイヤーが与えた影響」を描く。

ゲームとは双方向性の娯楽である。世界に影響を与え、また世界から影響を及ぼされるからこそプレイヤーは必死に考える。そして自ら選んだ選択が予想通りに運び、時に予想を上回った時、脳からジュワッと汁が出るのだ。


自由度。
バズワードになり、そして死んで久しい。
自由は死んだ。自由とは何だ。


自由とは雨の中、傘をささずに踊る人間がいても良いことだと、とあるネゴシエーターは言った。


自由とは、1兆通りの組み合わせからオリジナルのbuildを設計する事だろうか。
自由とは、危害を加えて良いNPCに危害を加え、ゲーム世界から殺されそうになる事だろうか。
自由とは、10種類以上の武器と多彩な防具を組み合わせてモンスターとたたかうことだろうか。


むしろ自由でない、という話をすれば、自由でないものが分かるのかもしれない。


コールオブデューティは人を殺さねばならないので自由ではない。これはイカをわっしょいする過程で死ぬほど聞いた。
日本のRPGは自由ではない。これはFalloutNVの広告で掲げられた言葉だ。
無課金にはプレイの幅がない。不自由だ。課金って言葉は金を課すって書くんだから作る側がいう言葉であって消費者が支払うときに言う言葉じゃねえよな。閑話休題

自由ではないとはどういう事なのだろう。プレイ体験が画一化されることを自由ではないというのだろうか。「選ばされる」とプレイヤーが感じた時点で自由度は無くなるのだろうか。


自由度という言葉は、バズワードになった。
故に厳密な意味はない。本来使われるべき言葉を置き去りにして、僕らは自由を叫び過ぎた。


自由だから何だというのだ。箱庭の世界で暴れたところで、劇的な何かをもたらさない戦いは退屈極まりない。ジャストコーズというゲームを知っているだろうか。このゲームは「敵の猛攻を凌ぎ、施設を破壊しきる」という指向性や「敵の猛攻から防衛オブジェクトを守り切る」という指向性があってこそ輝き、だからこそメインシナリオや基地攻めがすこぶる面白い。しかしクリア後は退屈極まりない。ただでさえオーバーパワーの主人公が、散発的な敵の襲来を退けて終わりになるからだ。オープンワールドのゲームはこうなりがちである。メインシナリオの出来が良ければいいほど、指向性のなくなった世界は退屈に映る。

行動に見合った報酬が支払われる、というのは報酬をあてにした指向性をもたらす。オープンワールドでゾンビを爆発物付き鎌でずたずたにするのは、ひとえに経験値のためである。人は暴れるにしても報酬を貰わないと暴れがいがないとぞ喚く大変面倒くさい生き物なのだ。

こんな選択をしても評価をちゃんとしてくれる!自由だ!といえばスプリンターセル ブラックリストである。ステルス、アサルト、ノーキルなどなど、あの手この手で評価と報酬をよこすのは各々の目標設定という自由を許容する。

ゲーム内で短期目標を提示する。その目標に達するため、何をすべきかという小さな目標を設定する。それに向けて遊ぶ。その結果報酬を得る。更なる報酬の為短期目標をクリアする。この小さな目標の設定とクリア方法をどうやっても良い。どれを選んでも良い。というのは確かに自由の一つの形である。

ゲーム内で何かやっても報酬が支払われない。それはゲームの評価対象外であり、やっても特に意味のないことである。意味を持たせてもらえない行動である。だだっぴろい世界をだらだら走って、時にはNPCを撃ってみても体験という報酬が支払われない。「自由であってもそこに感動はない」のが、蜃気楼となった「自由度」の末路である。

「○○したら報酬が貰える」というのは、「○○しなきゃ報酬が貰えない」に等しい。この艦を使わなきゃルートを固定出来ない。このモンスターを手に入れなければ突破は難しい。ゲーム内で愛しの誰かさんは価値を持たせてもらえない。そんなことがあったとしたら、それは見掛け倒しの自由とその犠牲者である。

自由という言葉で覆い隠されたもの、覆い隠してしまったものは何だったのか。

指向性なき世界というのは、存外に退屈である。
報酬なき行動というのは、専ら無味乾燥としている。
影響を及ぼせない活動というのは、虚空に叫ぶのと似ている。
それは人生においても、ゲームにおいても変わりない。

 

ラブライブ!サンシャイン!!5話。中二病でもスクールアイドルがしたい!

ルビまる回、あまりの尊さに言葉が行方不明になってしまった。で、それに続いての5話である。花丸ちゃんルビィちゃん相手のときは受け受けしいのにヨハネ相手のときはジト目攻めなのなんなの?一年生トリオ美味しすぎる。まったくラブライブ!は今も昔も公式が最大手だぜ。

 さて、善子回である。5話は善子回であると同時に、ラッシャイ初のワチャワチャ回であった。未来ずら。未来ずらよ、ルビィちゃん。

浦の星堕天祭り

他人からの反応が欲しい!注目を集めるならこれだ!とラブライブ!2期6話を彷彿とさせる事を言い出したAqoursちゃんたち。幸運なことに部活アイドルだのKISSのコスプレだのをさせられずに済んだし、衣装についても大変かわいらしいゴスロリ風ということで変な方向に行かなくて本当に良かった。悲劇は二度と繰り返してはいけない(戒め)

ファイブマーメイドのくだりですっかり馴染んでいる梨子や、先輩たちの冗談に乗っかっていくルビまるを描くのも非常に良い。というかすっかり梨子が前作での海未役になっている。千歌の家でみんなで衣装を試着して騒ぐのも5人になったからこそのワチャワチャ感である。3人集まるどころか6人集まっても文殊陥落の様相。まあ結果から言えば一発限りで終わるのだが、それも彼女たちの踏み出した一歩のひとつであった。

前半のこのワチャワチャ感が「やってみたけど駄目だったよ」という善子のくすぶりと、気持ちのいい早朝ストレート猛ダッシュに繋がっていくのだからラッシャイはたまらない。

「いつか羽根が生えて」

そして津島善子自体の話をしよう。彼女の素晴らしいところは既にネットアイドルとして大成しているところである。ニコ生は大盛況な上に、ルビィがささっと検索して見つけられる程度には有名のようだ。1年の頃失敗し、そのあと2年間を薄暗いアイドル研究部の部室で過ごした音ノ木坂の妖怪とはえらい違いである。1年の1学期(動画の投稿時期から推測するに7月)にリカバー出来て良かった。ああ、本当に良かった。

で。

でだ。

善子は既に、ヨハネとして受け入れてくれる場所を見つけていた。カーテンを閉め切った部屋で、Webを通じて誰かと既に分かり合えていた。しかし、彼女はそれを続けることを良しとしない。「堕天使ヨハネとして振る舞う事」と同じように、「学校に行くふつうの女子高生になる事」も、彼女の立派なやりたいこと。

朝に登校して、
クラスメイトに挨拶して、
部活動に出て、
友達の家に行って、
誰かと一緒に何かをやる。
そんな当たり前が彼女のやりたい事だった。

善子の良いところは、周囲が若干引いていることにきちんと気付けるところだ。あれが教室で暴走する善子を花丸が止めて、「分からなかった」と部室で喚く展開だったら目も当てられなかった。そこら辺のバランス感覚が今作非常によろしい。善子は「何とかして!」と頼める誰かに女の子なのです。

何とかしようと頑張ってみた。頑張ってみるもそれはやっぱり付け焼き刃で、しまいには巻き込んだ皆まで一緒に怒られてしまう。「一緒にいたら迷惑がかかるから」と離れていく彼女を、Aqoursの皆は止める事が出来ないのでした。

 

いつか羽根が生えて、天に帰る。

それは実現し得ないと分かっていても、子供の頃の夢だったから。いつか本当にそうなると、信じていた夢だから。自分が普通の女の子だったとしても、それを信じていた事まで嘘にする必要はない。フェルトの羽根だったとしても、彼女は羽根を生やして確かに輝こうとしていた。そうやって輝きたかった事まで、嘘にして得る普通は本当に楽しいだろうか?

アイドルになりたかった。地味なままでいたくなかった。スクールアイドルが憧れだった。もっと上手にピアノを弾きたかった。音楽をここで終わらせたくなかった。スカートを履いてみたかった。自分も誰かとユニットを組んでみたかった。ラブソングを歌ってみたかった。仲間が欲しかった。

きっかけはちっぽけでも良い。ちょっと恥ずかしくなるような理由でもいい。確かに周りがちょっと引いちゃうような事なら自制して、はっちゃける時は思い切り堕天使をキメちゃえばいい。そうやって振る舞うのが最高に格好いいと思っているのなら、それを諦める必要なんかどこにもないのだ。リア充になりたいからって、羽根を捨てることなんてないのだ。

自分の好きを、迷わずに見せる。
それこそが学生たちの間で「スクールアイドル」がA-RISEとμ'sの後も脈々と続いてきた原動力だった。

一度は捨てた羽根を、千歌から受け取る善子。
微笑む彼女はもうひとりぼっちではないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 そしていつものように不穏なクリフハンガーで終わる第5話。
いつになったらマリィさんは参加するのやら…

ラブライブ!サンシャイン!!4話。5年後の君にもあげるよ元気。

スカートが似合わないから。

口調が変だから。
人前に立てないから。
運動が苦手だから。
将来が決まっているから。
今まで続けてきた事に背くことになるから。
おねえちゃんがかなしむから。
 
スクールアイドルなんて、私には出来ない。
 
 

眩しい夢に気づいた君に

ラブライブ!サンシャイン!!(以下ラッシャイ)の4話、完璧である。完璧すぎて今更僕が書くことなんてあろうか。いや、ない。
 
ないのは寂しいので思いの限りを書く。
 
 
国木田花丸と黒澤ルビィ。
それこそ子供の頃からスクールアイドルが大好きだったルビィと対照的なのが、今までスクールアイドルにそれほど関心のなかった花丸だ。
 
ルビィの夢を後押しするのが、ユメノトビラを開くのが夢。とっくに夢に気づいている君を、輝くステージへ送るのが夢。そんな花丸を動かしたのは、歌や踊りでなく一枚の写真だった。
 
当時、高校一年生。秋のファッションショーに招かれてのライブ。その時の写真である。
 
憧れ方だって十人十色。国木田花丸が見つけた夢の鼓動は、「悩まないで夢を見よう」という歌の通りに動き出したのだ。街頭の大型モニタに映し出される姿に憧れを抱くものもいれば、本屋で立ち読みした雑誌から始まる夢もある。
 
ルビィを送り出し、また一人で図書室へ戻る花丸のシーン。名残惜しそうにページを閉じる指の演出がまた素晴らしい。たった1枚の写真、そこに至るまでの物語を私達は知っている。そしてその物語を親友である花丸に語るのは、背中を押された黒澤ルビィだった。
 
だからね あげるよ元気 そのままの笑顔で
歌おう 歌おう あげるよ元気 悩まないで夢を見よう
 
ショートカットの、実は恥ずかしがりな、一人のスクールアイドルが居た。その女の子の姿は5年経った今も、誰かの心を動かしていた。やっとμ'sだけでなく、「スクールアイドルのいる世界」を描けるに至ったラッシャイはこれからも見逃せない。

ラブライブ!サンシャイン!!3話 side-A だから千歌は羽根を掴まなかった。

ラブライブ!サンシャイン!!(以下ラッシャイ)は、ラブライブ2!ではない。当たり前の話だが、とても大事なことだ。ラブライブ!の流れを汲めども、ラッシャイは続編ではなく新シリーズである。

君のこころは輝いてるかい?』(以下『君ここ』)のMVをご覧になったことがあるだろうか。なければ今すぐYoutubeで見ることを勧める。ある程度キャラの名前と顔を覚えた今ならば、その情報の洪水に流されることなくすべてを受け止められるだろう。
 
さて『君ここ』のMV冒頭、千歌が見送るのは一羽の鳥だ。その鳥は羽根を落としていくのだが、千歌はそれを掴まない。ただ微笑むだけである。
 
羽根。それはラブライブ!本編で夢や輝き、青春の象徴として幾度となく現れ、2期ではそれを手にして微笑む各メンバーが描かれたキーアイテムである。そしてμ'sは沢山の羽根を散らして、羽ばたいていった。「産毛の小鳥たちもいつか空に羽ばたく」と、歌った通りに。
 
話を戻そう。千歌は羽根を拾わなかった。その輝きに圧倒されながら、夢に恋い焦がれながら、いつか歩いていく彼方の夢としてスクールアイドルプロジェクトをスタートさせた彼女は、羽根を拾わなかったのだ。
 
普通、羽根は拾うだろう。そうして「受け継がれた」「続いた」と、湧き上がるのが視聴者だ。しかし千歌は羽根を拾わない。何故だろうか?μ'sの伝えたかった「スクールアイドルの素晴らしさ」は、届かなかったのだろうか?
 
それに対して、明確な答えを打ち出したのがラッシャイ3話「ファーストステップ」であったと思う。
 
暗闇と輝き
 
ファーストライブを迎えるのは、前作の0人よりも更に生々しくなった「数人」の観客であった。それでも彼女たちは臆する事なく、自分たちのステージを披露する。問題はその後。悪天候により照明が落ちてしまうのだ。
 
アイドル、ひいては演者というのは、自分と、観客と、そして舞台があってはじめて「演じる」ことが可能となる。そこから光を奪ってしまっては、観客は見えず、暗闇にただ一人となってしまう。
 
暗闇の中、誰に届いているかもわからないまま歌い続けられるほどの強さを少女に求めるのはあまりに酷だろう。自分も変われないし、誰かを変えられるかもわからない。歌声は嗚咽の中に消える。「こんな筈じゃなかった」と誰もが思ったとその時、光が戻る。
 
「誰か」が、そう望んだのだ。
「誰か」が、そうあれと望んだのだ。
そう在れ。「アイドル」よ、そう在れ。
 
彼女らは歌った。精一杯の声で歌った。満員の観客の前で歌った。その姿は例え拙かったとしても、誰かの輝きに足るには十分なステージであったと僕は思う。
 
暗闇と輝き。「スクールアイドル」を描くにあたり、これほど的確な描き方もなかなかないのではなかろうか。
 
輝きたい。
 
「(μ'sの)彼女達はいいました。スクールアイドルはこれからも広がっていく。どこまでだって行ける。どんな夢だって叶えられると」
 
それは、μ'sの言葉と、μ'sの夢だ。Aqoursだけでなく、全国の人々に光を与えた、μ'sの輝きだ。
 
それに対して黒澤ダイヤは言った。これは今までのスクールアイドルの努力と、街の人の善意による成功であると。
 
スクールアイドルの努力。それは作中で言うならばA-RISEやμ'sを始めとしたグループたちの活動そのものを指す。だが、少しカメラを引いてみればどうだろう。スクールアイドルの努力。大人気のスクールアイドル。東京では流行ってる。即ち、ラブライブ!の名を冠しているが故の成功だということにならないだろうか。μ'sの威光を借りた上での展開だろう?という問いかけにはならないだろうか。
 
街の人の善意。それは作中で言うならば沼津の人々の「おらが街のアイドルだから」とかけつけてくれた、地元愛を指す。別に彼女らじゃなくても、人々は沼津のスクールアイドルだったなら取り敢えずは来てくれただろう。そしてこれは、「ラブライブ!」の名を冠しているから……「μ'sの物語が良かったから」観ている視聴者の事にほかならない。
 
成功しているコンテンツだから成功している。成功しているコンテンツの新作だから見ている。それは別に彼女達でなくても成立してしまうし、それは彼女達の輝きそのものではないのだ。勘違いしないように。
 
しかし、Aqoursの3人は、それにこう応える。
「わかっています」、と。
 
「わかっています。でも、見ているだけじゃ始まらないって、上手く言えないけど、今しかない瞬間だから。」
 
「輝きたい。」
 
輝きたい。それは誰かの夢の続きではなく、彼女達が目覚めたばかりの「僕らの夢」だ。眩しい眩しい、気づいたらばかりの彼女たちの夢と青春だ。
 
だから千歌は羽根を拾わなかった。彼女達が向かっているのは、彼女達の夢に見る「彼女達の輝き」だからである。
 

 

青空Jumping Heart

青空Jumping Heart

 

 

 

 
まさかの「過去作と同じではなく、それに乗っかるだけの物語ではない」宣言をぶちかましたラッシャイ。今後も目が離せない作品にやりそうで、毎週土曜が待ち遠しい。